世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2440
世界経済評論IMPACT No.2440

真珠湾攻撃から80年,「大東亜戦争」の目的再考

高橋岩和

(ITI 客員研究員・明治大学 名誉教授)

2022.03.07

 昭和天皇の1945年(昭和20年)8月15日の「玉音放送」に,皇居二重橋前広場に集まった国民が敗戦の衝撃に打ちひしがれている報道写真は今日まで多くの書籍などでみるところである。しかし,後の総理大臣吉田茂は,この敗戦に際して「喜ばしかった」と述懐している。吉田は,戦後の新生日本を「1920年代の日本に戻す形で再建する機会がようやく来た」と思ったからである(井上寿一『吉田茂と昭和史』講談社現代新書)。しかし占領軍は,この吉田の日本再建プランの想定する所をはるかに超えて,政治,経済,社会の改革を近代日本の根幹をなす「天皇制」と「軍備」という二大支柱を中心として大規模におこなった。

 このような急進的かつ大規模な改革は日本の主権回復・独立の後にもその結果がほぼ維持された。そして,そのもとで日本は1960~70年代の高度経済成長をなし遂げることとなった。今日の時点でこの改革を評価するとすれば,それは「日本社会のそれまでの内発性に基づいて,その発展を加速させるものであった」と言うことになろう。財閥解体―とその後の独禁法の導入―は,戦前・戦中徹底的に弾圧されたいわゆる「(マル経)講座派」の理論に従ったものであったし,農地改革も同様であって,大正期以来の小作調停制度と自作農育成政策による地主・小作関係の漸次的改良の延長線上にあった。労働者の労働基本権についても労働組合法案が政府に於いて立案されていた。明治憲法のもとでも保障されていた言論・報道の自由,思想信条・信教の自由などの基本的人権は同憲法の改正に依り徹底的に保障されることとなったが,そのような保障の水準が日本国民の悲願であったことは,明治期の自由民権運動を想起するまでもないであろう。

 こうしてみれば,「大東亜戦争」とはなんのために戦われた戦争であったのか,そしてそれは何をもたらしたものであったのかについて,屋上屋を重ねる議論となるが,真珠湾攻撃(1941年)から80年の節目に当たる今日,今一度考えてみることにはなにがしかの意味もあるように思われる。

 ところで,「大東亜戦争」は「太平洋戦争」と呼ばれるが,戦場が太平洋から中国大陸,東南アジア,豪州,アフリカ・マダガスカル島にまで及んだ戦の呼称としては足りないであろう。日本政府も開戦後,「太平洋戦争」を主張した海軍の主張を退けて陸軍の主張した「大東亜戦争」を正式名称として採用したという経緯もあるので,ここでは「大東亜戦争」と呼ぶことにしよう。

 大東亜戦争の目的は,天皇の開戦の詔勅,終戦の詔勅において端的に表明されている。

 すなわち「開戦の詔勅」(1941年)において,「米英両国は……東洋制覇の非望を逞(たくまし)うせむとす……剰(あまつさ)え……武備を増強して我に挑戦し……遂に経済断交を敢えてし帝国の生存に重大なる脅威を加(くわ)う……帝国の存立亦(また)正に危殆(きたい)に瀕(ひん)せり……事既(ことすで)に此(ここ)に至る帝国は今や自存自衛の為決然起(た)って一切の障礙(しょうがい)を破砕するの外なきなり」と述べられている。

 また,「終戦の詔書」(1945年)においては,「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり……米英二国に宣戦せる所以(ゆえん)も亦(また)実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出で……朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず……」と述べられている。

 大東亜戦争の目的はこのように,開戦の詔勅においては「自存自衛の為」とされ,終戦の詔書においては「帝国の自存と東亜の安定を庶幾する」為とされている。これらから大東亜戦争の目的を整理して全体として示せば,同戦争は第一に「(帝国の)自衛の為」であり,第二に「(帝国の)自存」と「東亜の安定」の為であった」といえよう。

 ここで注目されるのは,開戦時においては「(帝国の)自衛の為」ともされていた戦争目的が,終戦の詔書においては言及のない点であろう。このことは,大東亜戦争は継戦中に開戦時における「自衛目的」がなくなり,「(帝国)自存の為の戦争」,ひいては「東亜の安定―その主眼は終戦の詔書にみられる通り「東亜の解放」―の為の戦争」に変わっていったということを示すものであるということになろう。このように解する場合,「自衛」と「自存」の関係を明確にすることが必要となる。開戦の詔勅においては「帝国は今や自存自衛の為……起って」とあって自存と自衛は一体的のものとされているごとくである。これに対して終戦の詔書においては「帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)する」とあって自存は自衛と切り離されて用いられている。この場合「自存」は「帝国の生存圏の確保」といった意味であり,自衛より広い意味を有する用語であったと考えられよう。「自衛権」自体については,それは攻撃を今にも受けようとする国が武力に訴えることを正当化するものであり,戦争に訴える国がその行動を正当化するという性格の権利ではない。

 以上で述べたように大東亜戦争において戦争目的の変更があったとすれば,許されるものではなかった。すなわち,「自衛の戦争」のみが唯一の戦争正当化の論理であって,「自存の為の戦争や解放のための戦争」は自衛の戦争を取り巻く事情の説明でしかないという「目的と事情という両者の関係」は開戦の詔勅ないし終戦の詔書において明瞭に認識されるべきものであったといえよう。なぜなら,不戦条約(1928年)において戦争は違法化され,許される戦争は自衛の戦争と制裁の戦争のみとされているからである。もし不戦条約の下で「自存の為の戦争や解放のための戦争」も許されるとすれば,戦争の違法化という同条約の趣旨は没却されたこととなり,「自衛権」の名のもとに事実上の「戦争権」を認めるだけの条約ということになってしまうからである。(なお,戦争目的について服部卓四郎『大東亜戦争全史』(原書房)は「自存自衛と新秩序建設」の二目的があり,前者は後者に発展するーないし後者は結果的戦争目的であるーと述べているが,これも間違いであり,「(帝国の)自存」や「新秩序の建設」は事情の説明であって,不戦条約のもとでは決して戦争目的たりえないものである)。

 ただし,このように云ったからと言って,大東亜戦争が欧米列強の東亜の植民地支配に痛撃を与え,戦争終結後東亜各国が植民地独立戦争を開始するにあたり決定的ともいえる端緒となったという「功績」は,「東亜の解放」の為の戦争と信じて,そのために戦った多くの将兵の名誉ために没却されるべきではないことはいうまでもないことである。

 なお,一言付け加えておくなら,極東軍事裁判(東京裁判)において,極東国際軍事裁判所条例の法的構成は日本の不戦条約違反,九か国条約違反を処罰の法的根拠とするものであったが,このような不戦条約等違反を根拠とする訴追に打ち勝つためには,開戦の詔勅と終戦の詔書における戦争目的に齟齬が生じないような「自衛の戦争としての一貫した論理」の構築が課題であったと言えよう。同裁判における弁護側には不戦条約についての認識―戦争は違法化され,戦争権といった概念は捨て去られていたことの認識ーに不備がややあったのではなかったであろうか。

 以上,本稿で述べたことを繰り返しになるが一言でいえば,大東亜戦争は戦争目的が間違っていた(それは自衛の戦争を超える戦争であった)故に,連合国に於いて非軍事化のための社会構造改革が課題として強く認識され,その結果,日本社会の内発的発展が引き起こされ,また加速されて戦後日本は発展したのであったということである。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2440.html)

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