世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2153
世界経済評論IMPACT No.2153

10電力体制の終焉と残された課題

橘川武郎

(国際大学大学院国際経営学研究科 教授)

2021.05.17

 今から70年前の1951年5月,電気事業再編成によって,北海道・東北・東京・中部・北陸・関西・中国・四国・九州の各電力会社からなる9電力体制がスタートした。その後88年に民営化された沖縄電力が加わり9電力体制は10電力体制となって,長期にわたり日本の電気事業の屋台骨を支えてきた。

 10電力体制は,①民営,②発送配電一貫経営,③地域別分割,④独占,という四つの編成原理で成り立っていた。これらのうち③と④は,2016年の電力小売全面自由化によって,②は20年の発送電分離によって,それぞれ廃止された。10電力体制は,電力システム改革の進展を受けて終焉を迎えることになったのである。

 1951~2020年の足かけ70年にわたる9(10)電力体制の歴史は,以下のとおり,大きく四つの時期に分けてとらえることができる。

  • (1)民営9電力会社による地域独占が確立しており市場競争は存在しないが,パフォーマンス競争が展開された時期(1951~73年)。
  • (2)引き続き地域独占が確立しており市場競争が存在せず,パフォーマンス競争も後退した時期(74~94年)。
  • (3)電力自由化の開始により,電力の卸売部門と小売部門で市場競争が部分的に展開されるようになった時期(95~2010年)。
  • (4)東京電力・福島第一原子力発電所事故を経て,電力小売全面自由化と発送電分離が実施され,10電力体制が崩壊して,電力市場における競争が本格化した時期(11年以降)。

 140年弱に及ぶ日本電力業の歴史の大きな特徴は,国家管理下におかれた第二次世界大戦前後の一時期(1939年4月~51年4月)を例外として,基本的には民有民営形態で営まれてきた点に求めることができる。電力業は公益性の高い産業であるが,わが国の場合には,国営化や公営化の途を選んだ多くのヨーロッパ諸国と異なり,民営で電力業を営むという方式を選択した。つまり,民有民営の電力会社が企業努力を重ねて,「安い電気を安定的に供給する」という公益的課題を達成する,民間活力重視型の方針を採用したわけである。日本電力業の歴史に評価を下すには,この「民営公益事業方式」という選択が適切であったか否かが,重要な判断基準になる。

 「民営公益事業方式」が有効に機能するカギは,電力会社の民間活力の発揮にある。

 四つの時期の(1)に当たる51~73年に9電力会社は,民間活力を発揮して,「低廉で安定的な電気供給」という公益的課題を達成した。その理由は,次の2点にある。

 第1は,のちの時代と異なり,官と民のあいだに緊張関係が存在したことである。この時期には,電力国家管理の復活をもくろむ政府と,民営9電力体制の定着をめざす民間電力会社とが,官営か民営かをめぐって,つば競り合いを繰り広げた。戦前の電気事業法が廃止された50年から戦後の電気事業法が制定される64年までのあいだに14年間の空白期間が生じたのは,経営形態をめぐる対立が深刻だったからでる。政府は,特殊法人の電源開発(株)を設立し,佐久間ダムを建設させて官営の優位を誇示した。これに対して,9電力会社の一角を占める関西電力は,単独で黒部川第四発電所を建設し,民間でも大規模ダム開発が可能であることを示した。両者の対立は,結局,経済性の観点から電源構成の火主水従化と火力発電用燃料の油主炭従化を推進した民営方式の勝利という形で終結した。

 第2の理由は,市場独占が保証されていたにもかかわらず,9電力各社が活発に合理化競争を展開したことである。この時期には,電気料金の改定は,9社いっせいに実施されず,各社ばらばらに行われた。そのため,9電力各社は,他社よりも少しでも長く料金値上げを実施しないですむよう,競い合って経営合理化に取り組んだ。その結果,電源の大容量化,火力発電の熱効率向上,火力発電用燃料の油主炭従化,水力発電所の無人化,送配電損失率の低下などが急速に進み,「低廉で安定的な電気供給」が実現したのである。

 しかし,73年に石油危機が発生し(2)の時期に移ると,9(10)電力会社の民間活力は後退した。(1)の時期に作用した①政府・9電力会社間の緊張関係,②電力会社間の合理化競争,という二つの要素が,いずれも消滅したからである。

 政府・9電力会社間の距離がせばまった背景には,電力施設立地難の深刻化と原子力開発の重点化という状況の変化があった。電力各社は行政への依存を強めることによって立地難を緩和しようとしたのであり,74年の電源三法の施行はそれを象徴する出来事であった。一方,石油危機後電力各社が重点的に推進した原子力開発は,安全性への危惧などから十分な国民的コンセンサスを得ることができなかった。そのため9電力会社は,原子力開発をすすめるうえで政府による強力なバックアップを必要とした。このような脈絡で,(2)の時期には,政府と9電力会社とのあいだの距離がせばまったのである。

 石油危機にともなう原油価格の急騰を受けて,9電力会社は,74年から80年にかけて,電気料金を3度にわたり大幅に値上げした。74年以降,9(10)電力会社は,電気料金を改定する際に,横並びでほぼいっせいに行動するようになった。電力業界では,カルテル的傾向が強まり,石油ショック前に作用していた「値上げ回避のための合理化競争」のメカニズムは消滅した。

 電力市場の部分自由化が進行した(3)の時期には,10電力会社の民間活力の復活が期待された。しかし,結果的には,その成果は限定的なものにとどまった。そして,福島事故を契機に(4)の時期を迎え,10電力体制は終焉することになった。

 しかし,ポスト10電力体制の時代でも,民営体制は生き残る。電力業界における民間活力の復活は,今日でも重要な意味をもつ残された課題だと言える。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2153.html)

関連記事

橘川武郎

最新のコラム