世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2140
世界経済評論IMPACT No.2140

危ないから止めておけ

鶴岡秀志

(信州大学先鋭材料研究所 特任教授)

2021.05.10

 4月22日にトヨタ自動車中央研究所が科学技術の重要な進歩となる成果を発表した。それは,長年,科学者だけではなく工業的にも地球環境を守るためにも必須の技術といわれ続けていたもの。可視光エネルギー,すなわち太陽のエネルギーを,化学エネルギー,すなわち地球上のあらゆる生命体が使える形に転換する人工光合成における実用化への大きな前進である。発表によれば,光エネルギー変換効率で植物を上回る7.2%を得たとのこと。本研究者らは,2015年の論文(速報と分類されるもの)では変換率4.6%でありサトウキビなどの植物の高変換率光合成を超える一歩手前まで迫っていた。多くの同様の研究ではここからが難関,高い壁であり,続報が絶えてしまうことがほとんどであった。本研究の凄さは,植物の光合成に近い条件でサトウキビなどを超える変換率を達成したことにある。水中に溶解した二酸化炭素と水から,助剤無し,常温常圧状態,可視光,つまり,緑色植物の炭酸同化作用と同じ条件で光を高効率で有機物に変換できることにある。

 人工光合成研究の多くは紫外線あるいは助剤を水に添加するなど光合成メカニズムの解明と人工的な操作による可能性実証にとどまるものであった。本研究は,二酸化炭素と水から触媒を用いて有機酸の基本構造を持つギ酸を,36センチのセル(反応が起こる薄板状のもの)で水を循環させながら反応させている。近い将来,実用的な人工光合成装置を量産することが射程内に入ったといえる。ギ酸から脂肪酸を合成することができるので食物や樹脂を植物に頼らずに製造できる可能性が見えてきた。

 もちろん,本技術には改良の余地が多々ある。植物は有機物からなる触媒を使って光エネルギーを有機物に「固定」しているが,本研究では触媒の骨格に希少金属であるルテニウムやイリジウムを用いている。この元素をより汎用性の高いものへの転換が期待される。かなり廃れてしまっているが,我国は世界でも触媒研究が盛んだったので複数のノーベル賞や数多くの学会賞を受賞している。多くの研究は企業と大学の共同作業で成し遂げられたので工業的に根を張った「土台」が形成されてきた。トヨタ中央研究所の成果をきっかけに,産学共同で停滞している我国の触媒研究を再興して欲しい。

 化学反応は,アンモニア合成のハーバー・ボッシュ法のように100年以上進化のないものも有るが,殆どは一端実証されると急速に工業化され効率も飛躍的躍進を遂げる。長年の地道な,しかし日本が築き上げてきた触媒化学の結実とも言える今回の研究成果は,二酸化炭素を直接的に有用な原料に転換することであり,太陽光パネルや風力発電のように保存の難しい電力だけを得るものではない。石炭は3億年も蓄積されてきた有機物由来のエネルギー源であることを思い返せば,光を有機物に変換することの重要さが判る。地球にとって温暖化対策の切り札になるだけではなく,将来,月や火星に移住するといった場面で必須の技術である。ドイツを筆頭に欧州が声高に叫ぶ二酸化炭素排出削減,炭素税という欧州の押しつけゲームルールを日本が技術力でひっくり返す,ホンダのCVCCエンジンやトヨタのハイブリッド,電球の代わりのLED以上の大きなインパクトがある。次回のCOP会議で,前回,日本を揶揄した輩にThe Losersという冠を被せてやりたい。

 科学技術予算がほとんどつかない触媒分野でトヨタが成し遂げたことに敬意を表する。

 ここで我国のメディアに対する大きな懸念がある。トヨタの人工光合成は,ESGを観念論や金融技術論ではなく,科学技術に立脚した成果にもかかわらずマスコミと金融解説者はスルーした。連日,我国の科学技術力低下を徹底非難しているにもかかわらず,重要な科学技術を見る目も評価する能力も持たず,単に喚くだけの存在であることを露呈したと言える。顔を洗って出直すどころではなく,将来のビジネスに大きく関与する技術を目利きできない人々はその影響力のある立場を再考すべきだろう。1957年に大宅壮一が看破した「一億白痴化」が,世論形成を成す層ではより深刻になっていることの現れと言えるだろう。言論の自由とはいえ,報道の本来能力が欠如しているためにゴシップと中身のない正義に偏っている。また,ワクチン忌避運動のような「国民に寄り添う」を理由とした非科学的な感情論で国家の安全保障を毀損することを自ら止められない某放送局が強制的に受信料を集めている。結果論としてワクチン忌避運動は国民の生命を脅かした重大な作為と思うがいかがだろうか。

 金融の世界ではグリーン・シルやアルケゴスという巨額損失が発生している。危ないと判っていても上から下までイケイケで投資して大損を被ることが繰り返される。野村やクレディ・スイスが損することは自己責任だが,過去のエンロン,サブプライム,リーマンのいずれも社会に,本来被害を被る必要のない大勢の人々に大きな影響を及ぼした。翻って,多くの大企業や中堅企業の幹部は技術へのチャレンジになると,ノミの心臓を持っているかのようである。特に,新規材料の分野ではアスベストやグリホサート(商品名ラウンドアップ)の起訴などを「教訓にする」と言う大義名分の下,石橋を叩いても渡らない傾向が強くなっている。更に,科学の進歩よりも原始共生的な生活へのあこがれを持つ環境団体や市民活動家が,科学的には無茶苦茶なキャンペーンを行い,マスコミが大きく取り上げるので企業幹部の萎縮に拍車がかかる。この際,コロナ禍で混乱が起こったことを機会として,強欲金融業界や全体主義体制による社会的混乱(すなわち文系分野)と,化学物質による環境への影響(すなわち理系分野)による死者の数を比べて見る「文理融合」議論が必要である。

 「危ないから止めておけ」は今回の新型コロナに立ち向かう姿からも,特に我国に巣食う病巣として捉えられる。手のひらを返したように言説を変えるマスコミはいざしらず,長年に渡って培ってきた科学技術,それこそネジ1本からH-II宇宙ロケットまで貶すことに愉悦を覚える人々を育ててしまった戦後の文化や社会運動に問題があった。「一億白痴化」を改めて考察する時である。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2140.html)

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