世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
情報リテラシー:歴史をみる視点について
(明治大学 名誉教授)
2020.11.16
歴史研究における情報リテラシー
「歴史研究における情報リテラシー」ということについて,具体例として「太平洋戦争」を取り上げて述べてみたい。周知のとおり太平洋戦争についての歴史像は歴史観のいかんによりさまざまであるから,自分なりの歴史像に近づくためには,情報の扱い方について「情報源」をどこに求めるか,集まった情報から「必要な事実の把握」をどのように行うかがまず重要となる。つぎに,それらの事実から「仮説の構成」をおこない,当該仮説の検証を繰り返しつつ自分にとって納得のゆく歴史像を導き出すことが必要となる。この作業においては,「(歴史は)列強が相互に仮想敵国を設けて結合し,対峙しあうという国際関係のなかにある」ことを踏まえて,長期的視野にたって「歴史の因果関係」を明らかにすることが肝要となる(この点は,林健太郎『歴史学の方法』白日書院1947年79頁の指摘するところである)。
本稿では,太平洋戦争を,他の多くの研究とは少し視点を変えて,第一に「第二次世界大戦」という文脈のなかでみてみること,第二に政治史や経済史を踏まえつつも「法的な観点,換言すれば法の支配という観点」からみてみることを試みてみたい。なお,立場は異なるが,このような観点を踏まえたと思われる研究として加藤陽子『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書)がある。
「不戦条約」と日本の近代史
まず,日本の近代史を「法的な観点,換言すれば法の支配という観点」からみるという点であるが,この場合1928年(昭和3年)の「不戦条約」(パリ不戦条約ともいう。)を分水嶺として歴史認識が根本的に変わるということを認識することが重要となろう。すなわち,不戦条約まで戦争は,「戦争権」の保持のもとで国際紛争の最終的解決策として是認されていた。普仏戦争であれ,日露戦争であれ,政治の延長として戦争を開始することができ,戦争後の紛争の最終解決は敗戦国が領土の割譲や賠償金を払うということで処理されていた。しかし,第一次世界大戦ののち,1919年(大正8年)の国際連盟規約においてはなお同連盟紛争処理手続で勝訴した後に戦争行為に訴えることはなお是認されていた(連盟規約16条)が,1928年の不戦条約に至って「戦争を違法化する」という国際的合意が生まれ,戦争は「違法な戦争」と「適法な戦争=自衛の戦争」とに二分化され,違法な戦争は禁止されることとなった。この近代史における「1928年の分岐点」の成立と意義については,イエール大学教授(国際法担当)オーナ・ハサウエー他共著『逆転の大戦争』(文芸春秋社。原題はO.Hathaway and S.Shapiro, “The Internationalists: How a Radical Plan to Outlaw War Remade the World”, 2017)に詳しい。
不戦条約は「国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし・・国家の政策の手段として戦争を放棄する」(1条)と規定する。その解釈基準として「各国民は……攻撃又は侵入に対してその領土を防衛するの自由を有し,且右国民のみが……自衛の為戦争に訴える……ことを決定する権能を有する」とされた(1928年6月23日各国政府宛米国政府公文)。
「日独伊三国同盟」と太平洋戦争
つぎに,太平洋戦争を「第二次世界大戦」という国際関係のなかでみるという点であるが,同戦争は,ドイツの1939年9月のポーランド侵攻を契機として,英仏がドイツに対して宣戦布告し,ドイツも英仏に宣戦布告したことで始まった第二次世界大戦の一環である。ドイツの戦争目的は主としてベルサイユ体制の桎梏からの脱却であった。
この場合,日独伊は1940年(昭和15年)9月に「日独伊三国条約」を締結していたので,太平洋戦争に先立って日本の同条約との関係が問題となった。ドイツは日独伊三国条約に従って日本にイギリスの植民地シンガポールを攻撃するよう求めてきたからである。すなわち,同条約3条は「締約国中いずれかの一国が,現に欧州戦争または日支紛争に参入しおらざる他の一国によって攻撃せられたる時は三国はあらゆる政治的,経済的及び軍事的方法により相互に援助すべきことを約す」と定めていた。この要請はドイツ(ヒットラー総統)が,日本のシンガポール攻撃は米国の参戦を防止するとの戦況判断によるものであったが,日本(松岡外相)はこの要請に応じなかった(以上,外務省編『日本外交年表並主要文書Ⅰ840-1945』(下)459,147頁による)。日本はこの時点では英国の対日開戦を予期しておらず,そのことを前提とする不戦条約上の自衛権ーこの場合は「予防的自衛権(先制攻撃)」―の行使も不要と考えたからであると思われる。
つぎに,アメリカである。同国は当時,中立を守り,いかなる戦争にも参戦しないことを国是としていたが,ドイツがフランスを降伏させ,イギリスを攻撃している戦況のなかで「中立法」を改正して,戦争当事国のうち不正義の戦争をしている国(ドイツ)の相手国(イギリス)への武器の輸出を目的とする武器の港湾までのアメリカ国内搬送は同法違反としないこととした。アメリカはなお,兵員の欧州戦線派兵を可能とする道を模索しつつ,ドイツの対米宣戦布告と日本の三国同盟上の「予防的自衛権」行使による対米開戦という「二正面作戦」を強いられることを最も警戒していた(前掲・逆転の大戦争248-254。この警戒感はソ連の連合国入りで薄らいだ)。なお,この間英米は,日独が三国同盟交渉中の1940年7月には両洋戦線構築と共同防衛義務に係る軍備計画(先ドイツ後日本攻撃という二段階戦略)の交渉(同年8月に英米共同宣言)をおこなっていた(Gerhard Schreiber,“DER ZWEITE WELTKRIEG” C.H.BECK Wissen,S.47)。
そこで日本であるが,日本は対米交渉(主要議題は,中国の領土保全,日米通商条約廃棄,日本の日独伊三国同盟からの脱退要求などの問題)の行き詰まりとアメリカの一連の対日経済制裁発動を契機として1941年(昭和16年)12月8日にアメリカの真珠湾海軍基地への攻撃をおこない,同日対米英宣戦布告をおこなった。その宣戦布告の詔勅において「帝国は今や自存自衛のため決然起って一切の障礙(しょうがい)を破砕する」と自衛の戦争であることを宣言している。これに対して米英も同日対日宣戦布告をおこなった。ドイツは12月11日に,米国が中立国の立場を破り,1941年9月以来同国海軍・空軍がドイツの艦船を攻撃していることを理由として対米宣戦布告をおこなった。アメリカもこれに対して同日に対独宣戦布告をおこなった。
自衛権の範囲と行使の要件
以上,パリ不戦条約と日独伊三国同盟のもとでの日本の第二次世界大戦参戦をめぐる状況をみてきた。そこでは「自衛権の範囲と行使の要件」とが最大の問題であったと考えられる。パリ不戦条約における「自衛権」の解釈は「不戦条約中にはなんら自衛の権利を制限し若しくは毀損するものなし。該権利は各主権国固有のものにして一切の条約中に黙示的に包含せらるるものなり」(前掲・米国政府公文)ということが前提とされ,そのうえで,アメリカは日米交渉でも,「(対独戦における)対英武器援助を自衛の一部とみなす」という予防的自衛権に係る主張を正当化し,また自衛の範囲についても「米国の安全のため最も効果的に抵抗できる凡ての地方においておこなわるることを確言し,また米国の権益の攻撃せられしもしくはその安全が脅かされたという事実の存否およびその時期並びに場所は米国自身で決定する旨明言する」と主張するものであった(東郷茂徳『時代の一面』中公文庫,昭和27年,253-4)。このような「最広義の」相互に因果関係となる自衛権解釈のもとでは,戦争を違法化したとしても各国は互いに自衛戦争の名目で戦争をおこなうこととなり,結果として軍事力で勝った戦勝国により,敗戦国の戦争のみが自衛権の範囲を縮減されて同権利の行使を否定され,違法な戦争と認定されることにならざるをえないであろう。
今日でも,自衛権の行使は「その範囲と行使の要件」を定めることは難しく,核ミサイル保有国による「(核ミサイルは)信頼性の高い,効果的な自衛のための戦争抑止力の獲得として正当である」などとする主張も許されている。国連憲章51条においても,武力攻撃に対して自衛権を行使したときは国連に通報することが定められるにとどまっている。これでは,国連において侵略の定義の明確化,戦争指導者への処罰の厳格化などの努力が続けられているとはいえ(この点については,村瀬信也編『自衛権の現代的課題』東信堂 2007年参照),「戦争の違法化」と国際紛争の解決を「法の支配」のもとに置くというパリ不戦条約の理想は実現されるものではないであろう。
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