世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
香港「国家安全維持法」と世界構造の連鎖的変化
(聖心女子大学 教授)
2020.08.10
2020年7月1日は活気に満ちたあの香港の雰囲気の終わりの始まりかもしれない,と世界が思った。1997年の香港返還から23年となるこの日の前日深夜,中国共産党は反政府活動を禁止する香港「国家安全維持法」を施行した。この1本の法律が巻起こす国際情勢の変動は想定外に大きい。玉突きの連鎖がいま世界の構図を変えている。米中の攻防は大きな転換局面を迎え,技術覇権から,通貨覇権やデータ覇権,さらに広範な安全保障問題に野火が拡大しつある。
アメリカでは,香港に与えていた数々の特権,たとえばビザなし渡航や低い関税などをはく奪し,香港の自由を奪った当事者が米国内に保有する資金凍結することを可能にする「香港自治法」が下院を満場一致で通過し,トランプ大統領が署名をした。中国高官の蓄財はアメリカに大量に保蔵されており,8月7日にアメリカ財務省は,香港政府や中国政府高官11人の資産凍結を公表した。7月末にポンペオ国務長官は,中国の南シナ海での行為は明白に国際法に違反するとはじめて言明し,領土問題を当事国に任せて関与しない姿勢を転換した。また,アメリカは中国によるスパイ行為を糾弾して,米中がそれぞれテキサスと成都の総領事館を閉鎖するまでの事態に至った。これがトランプの選挙対策であるにせよ,長期の戦略としてにせよ,アメリカの対中姿勢が転換したことは間違いがない。アメリカが自信のあまり,いずれ中国を手なずけられると見ていた幻想から醒めて,中国の価値観と本質をやっと正確に理解したということかもしれない。
「英中共同声明」(1984年調印)で謳われた香港の1国2制度では,香港は,中央人民政府が直轄する特別行政区であるが,立法権を有し,自ら治安を維持し「人身,言論,出版,集会,結社,旅行,移転,通信,罷業,職業選択,学術研究,宗教信仰の諸権利と自由を保障」し「50年間は同規定を変えない」とされていた。しかし外交や国防は全人代が担う。「香港特別行政区基本法」23条では,香港自らが国家反逆の動きを禁止する法律を制定すると定めているが,香港政府がそれを制定できない中で,9月の香港立法会(議会)選挙で民主化勢力が過半数を握る可能性が出てきた。同法18条には「香港特別行政区内で香港特別行政区政府が統制できない国家統一および安全に危機をもたらす動乱が発生して香港特別行政区が緊急事態に突入することを決定した場合,中央人民政府は関連する全国規模の法律を香港特別行政区で実施する命令を発令することができる」とある。香港の状況を「国家安全」であると解釈し香港「国家安全維持法」を施行した,というのがその法的解釈と説明だろう。その結果,民主派12人の立候補を阻止することに成功し,選挙自体もコロナを口実に1年延期することになった。
しかしイギリスの面子は潰れた。EU離脱による経済へのダメージを最小限に抑えるために,アメリカからの再三の要請と圧力を払いのけて中国への配慮を示してきたイギリスさえ,この香港「国家安全維持法」ではイギリス人も制裁の対象になり得るため,国内の対中強硬派を抑えられなくなった。イギリスはこの法律が「英中共同声明」に違反し,国際的な約束を反故にしたと激しく中国を批判した。香港返還以前に生まれた香港パスポートの保持者にイギリスの特別査証(ビザ)を与え,中国との犯罪人引渡し条約の停止を決定し,新疆ウイグル自治区における人権侵害も非難し始めた。
中でも,イギリスが2027年までにファーウェイを排除するという決定は,イギリスの国家としての立ち位置と方向転換を鮮明にした。2018年以来アメリカは,通信情報網を共有する5eyes(米,英,加,豪,新)にファーウェイ排除を特に要請していたが,排除を明確に表明したのはオーストラリアのみであった。今年1月13日の米英の協議で,アメリカはファーウェイを5Gインフラに組み込むことの国家安全保障上の危険を大量の証拠で示した。だがジョンソン首相は「そのような技術的危険性は低い」とファーウェイの5G参入につき周辺機器の市場シェア35%を上限に定めた上で1月28日に認めたばかりであった。これをうけてファーウェイは,EUでの本格的事業展開に向けてフランスに2億ユーロ(約250憶円)を投じて通信機器工場を増設し,イギリスとスイスに研究拠点を置いたのだ。
ファーウェイが直接間接にイギリスの2018年GDPに寄与した額は17憶ポンド(2300憶円)(Oxford Economics試算)と年々増加し,26000人の雇用も生み出してきた。それでもイギリスがファーウェイを切らなくてはならない状況を中国は自ら作りだした。フランスもドイツも東欧も,EU各国内でファーウェイの認可をめぐり意見が揺れている。ファーウェイ排除の動きがEUに広がれば一帯一路の推進はかなり難しくなる。中国国家報道官がファーウェイを声高に擁護し米英を全世界に向けて批判するたびに,それは覚悟の上であろうに…と問うてみたくなる。
あれだけ巧みに共産党と距離をおいてきたファーウェイではあるが,アメリカに追い詰められ,共産党に擁護されればされるほど,同社がすでに共産党の庇護の下にあるように印象付けられる。そのため「インターネット安全法」「国家情報法」「データ安全法」が民主主義国家の人々の脳裏に想起され,ファーウェイの「我らは潔白だ,瑕疵はない」という叫びが虚しく響く。安全保障をめぐる米中覇権のどちらにつくかの「踏み絵」がファーウェイの5Gであるなら,市場での需要は価格以外の要素で決まることになる。今年になってファーウェイが例年の2.2倍買い込んだアメリカやTSMCの良質な半導体の在庫が尽きるまでに,ファーウェイは起死回生の方向転換を探るであろう。
そのひとつの方向性は,世界が香港「国家安全維持法」をどう見ているかにも現れる。6月の国連人権理事会では同法を支持した国家は53か国,不支持を表明したのは27か国であった。7月現在NHKの調査によると,それぞれ67か国と29の国と地域であった。インドと南アフリカは意見を明確にしていない。前者は北朝鮮,アフリカ諸国などの権威主義的国家もしくは途上国が中心であり,GDP合計は77兆ドルである。不支持を表明したのは民主主義の先進国で,GDP合計は442兆ドルであり,前者の約6倍の経済規模がある。国家の数か,経済力か,価値観をめぐる意見の相違の根は深い。先進国の通信会社には,自社の通信機器供給先をエリクソン,ノキア,サムスンに切り替えていく内外の圧力がかかっていくであろう。一方中国は,新型コロナでさらに債務返済が困難になった途上国のうち特定国を優遇するなどしてG20の足並みを乱していると批判されている。世界は中国の国家戦略に気づいて警戒し始めてはいるものの,中国はマスク・医療機器支援で影響力を高めようとしたり,仮にいち早く新型コロナワクチン開発できればワクチン外交を展開すると言われている。新冷戦は,もしそれがあるなら当面はこの国家群の構図で展開されることになるだろう。
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