世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
3月24日タイ総選挙
(神奈川大学経済学部 教授)
2019.08.19
7月13日から14日にかけて目白の日本女子大で日本タイ学会研究大会が開催された。本年の研究大会では3月24日のタイ総選挙を分析するセッション「政治・経済・社会から迫る2019年総選挙」が企画され,私も3名の発表者への討論者として参加した。
このセッションから得られた知見を踏まえ,今回の選挙を概観してみよう。2014年5月クーデターを起こした軍事政権は,2014年暫定憲法44条などによって5年近く超法規的独裁を継続した後,7年8カ月ぶりに総選挙を実施した。「民政」移行が遅れた理由は,クーデターを行った勢力が,2006年9月のクーデター後タクシン派が勝利した2007年12月,2011年7月の総選挙の再現阻止を確信できなかったからであった。選挙で勝利した勢力が議会政治の実権を容易に掌握できない憲法を起草し,時間をかけてクーデター勢力である国家平和秩序評議会(NCPO=National Council for Peace and Order)が官僚統治機構を自らに有利な布陣へ再編した。タクシン派政党であるタイ貢献党の総選挙における勝利を阻止すべく,選挙制度を大きく改変した。新たな選挙制度では,非民選議員の首相就任が可能となり,上院も下院同様首相指名権をもち,200名から250名へと増員され全員が任命制となったことを,大きな変更として挙げることができる。新制度ではNCPOが上院を指名するので,下院の四分の一の126名を自陣に握ることで,内閣を組閣できる制度となった。500議席の民選議員を350名の小選挙区と150名の比例区に分け,小選挙区のみの投票とし,比例区は小選挙区の得票比率で配分する制度となった。新たな制度では,小選挙区で獲得した議席数が全得票率の議員比率を超えた場合は,今回タイ貢献党が比例区で0議席となったように,比例区の議席を獲得できない。また,タクシン派政党であるタイ貢献党に不利な区割り,ゲリマンダーが行われた。タクシン派は大政党に不利な選挙制度に対応すべく,新たに6党を分党させる戦略をとった。新たな6党のうち最有力の政党はタイ国家維持党(タイラクサーチャート)であり,母党であるタイ貢献党は350の小選挙区のうち100選挙区に候補をたてずにタイ国家維持党と選挙区の区割を実施した。しかし,タイ国家維持党は首相候補に,現国王の姉,ウボンラット王女を担ぎ,国王が王女の擁立を不適切としたことで,選管は憲法裁判所に解党を申請し,憲法裁判所は「国体を損なう行為」と断じ,タイ国家維持党の解党と党首脳13名の10年間の公民権停止判断を下した。
バンコクの保守的なエリート層が支持する軍事政権は国民国家の力党(パランプラチャーラット)を立ち上げ,プラユット首相を首相候補とし権力継承の受け皿政党とした。党首や幹事長の布陣をみると,軍事政権の経済担当副首相であるソムキット・チャートゥシーピタックが中心的な役割を担ったことがわかる。ソムキットは米ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院博士でマーケッティングの権威フィリップ・コトラーの愛弟子である。彼は元来タクシン元首相の経済ブレーンであり(タイ愛国党の解党の際に5年間公民権停止の判決を受けている),タクシン政権の経済政策は彼の政策に負う部分も多かった。プラユット首相は2015年8月の内閣改造でプリーディヤートーン経済担当副首相に代えてソムキットを起用した。ソムキットは広範囲にわたるポピュリズム政策を実施し,国民の支持を取り付けようとバラマキ政策を総選挙の直前まで続けた。
総選挙の議席確定は迷走を続けたが,1か月半を経た5月8日に選挙結果が確定された。
その結果,混迷した連立工作を経て,第二党の国民国家の力党を主軸に,7月10日にプラユット将軍を首相とする内閣が発足した。従来投票日の翌日には結果が発表されていたが,今回の遅れは選管による恣意的な議席確定操作に原因がある可能性が高い。選挙結果は,500議席のうちタクシン派のタイ貢献党が136議席,プラユット派の国民国家の力党が116議席,新未来党が81議席,民主党が53議席,タイ名誉党が51議席,セーリールアムタイ党が10議席,タイ国民発展党が10議席であった。選管は議席確定では,かなり強引な判断を示した。チェンマイ8区では,タイ貢献党のスラポンの当選が選挙権をもたない僧侶への2000バーツ(約7000円)の寄進を買票とされ当選を取り消され再選挙となった(再選挙では,当初次点であった国民国家の力党の候補は得票を減らし,3位であった新未来党の候補に大差で敗れた)。また,新未来党の党首タナートーンはメディア関連の会社の株式を所有していたことで(会社は2018年に既に廃業),職務停止処分を受けている。さらに憂慮すべきは,選管は疑義のある比例区の議席確定で反軍政党の下院における勝利を消し去ったことである。憲法91条の規定によれば,有効得票票数を議席数500(再選挙があり498で計算)で除した7万1169票以上の得票を得た政党のみに議席が配分されるはずであった。しかし,選管は死票をなくすという理由で選挙法128条の無理筋の解釈で,7万票に満たない10の政党に1議席を与えた。得票最下位で議席を得た新正義党は3万5533票であった。これらの10党はクーデター側の連立構想に参加した。最も影響を受けたのは新未来党で7議席程度を減らしたと思われる。憲法91条の配分に従えば,反軍政党連合は250議席以上をとっていたことは確実であり,クーデター勢力によって選ばれた選管はその「仕事」をした訳である。
最後に今回の選挙で見えた2つの変化を述べたい。タクシン派政党と対立する第2党として一貫して対立軸であった民主党が,バンコクで1議席も取れず,盤石の地盤であった南タイでも大きく議席を減らした。今回のセクションで京都大学の玉田芳史が指摘したように,この政党は保守的王党派の顔と自由民主主義派の顔というある意味矛盾した両面性をもっている。今回の選挙では党首アピシットが反軍選挙キャンペーンを張ったため,王党派の支持は国民国家の力党へ流れて惨敗した。もう一点は新未来党の登場である。新未来党はタナートーン・チュンルンルアンキットが党首,ピヤブット・セーンカノッククンが幹事長である。タナートーンはまだ40歳であるが,自動車部品の巨大財閥の御曹司であり,タマサート大学の工学部を出ている。今回の党設立で政治家に転身する以前は,父から受け継いだ家業を巨大企業に成長させた。彼は金型のオギハラを買収しNHKスペシャルでも特集されている。しかし,学生時代からNGOや市民活動などに積極的に参加し,タイの民主主義の発展へ強い意志をもった人物である。昨年2人は留学生への選挙活動のため来日し,京都大学や早稲田大学で討論会を開催した。タナートーンと意見を交換した際に,もともと企業経営よりも社会改革に興味があり今は企業活動には全然関与していないと話していた。大企業が税金を払わず中小企業が税金を払う,投資奨励委員会(BOI)の特典がおかしいとして,もしBOIが特典を廃止すると日本企業はどういう行動をとるかと,話していたことが印象に残っている。ピヤブットは39才,今回の選挙で辞任する以前はタマサート大学法学部の新進気鋭の憲法学者であった。不敬罪に批判を加えるなど民主的な法学者として著名なウォラチェート門下で,軍政下の言論統制で絶望的な情況の中,民主化に関連する優れた研究を発表してきた。別れる際,「希望を失ってはいけない」と決意を述べた言葉が印象に残っている。
新未来党は,これまでタイにない構造をもった政党である。選挙運動にほとんど金を使わず買票はない。候補者は既存政治団体と関りがない新人で,少数民族,労働組合指導者,LGBTなど既存政党では候補者になりえない候補者も多数抱えて,反軍と民主主義理念を掲げ選挙に臨んだ。SNSやネットをうまく使い,党の政策で有権者,特に若者の支持をつかんだ。プラユット政権にとって,新未来党はタクシン派よりも脅威であり,党は既に複数の容疑で解党要請をうけ,党首タナートーンは職務停止処分を受けている。今回の新未来党の躍進はタイの政治が変る原動力になるのであろうか。相変わらず恣意的な法の運用で民主化潰しがみられるタイであるが,期待を込めて今後の展開をみていきたい。
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山本博史
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