世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1296
世界経済評論IMPACT No.1296

化学を侮ってはいけない

鶴岡秀志

(信州大学カーボン科学研究所 特任教授)

2019.03.04

 某損保会社のテレビCMみたいなタイトルだが,技術立国の立て直しが叫ばれても化学の復権は見通せない状況である。化学は素材技術の要であるにもかかわらず一般からの誤解が多く,若者に人気もない。これに拍車を掛けているのが,マスコミによる疑似科学(要するにフェイク科学,化学関係が多い)の拡散である。

 科学の世界でも流行り廃りがある。事実,科学研究で話題になった内容が直ちにビジネス登場することは稀である。殆どの場合,ほとぼりの冷めた頃にやっと製品が出てくる。特に,科学(Science)と技術(Engineering)が分離した現在の我が国では医薬品を除いて即製品化は皆無と言って良い。これは,エジソンの時代と異なり,製品製造技術は企業が行うものという我が国の大学研究者の姿勢が反映されている。実験装置の発達で極微量で結果を得ることが可能だが,工業化につながらない我が国特有の構造的な技術の「死の谷」となっている。科学ニュースから関連銘柄ということで株価が踊るので,株屋さんの口車に乗せられて投資家がカモにされる。この状態が半世紀近く続いているので,話題の科学技術が工業的に本物かどうかの見極めが難しい。

 反対に,マスコミの知識不足と無責任により会社が潰れた有名な例がカイワレ大根だが,もっと深刻なケースは2000年に発生した雪印の牛乳食中毒問題である。マニュアルどおりメンテをしていても製造ライン中に黴や苔の塊ができることが時々ある。厄介なことに,これらの微生物は製品検査で検出できるような胞子や毒素を出さずに増殖を続け,ある日突然,爆発的に毒素を撒き散らし始める。それを防ぐために,多くの製造ラインは毎日洗浄と定期的分解洗浄をする。そこまで徹底しても,日本のような高温多湿の気候では食中毒をゼロにすることは不可能という科学的理解を無視して,マスコミは偏った非難を続けた。結果的に消費者の信用をなくしてブランドと会社が消滅した。そのような報道姿勢を社会正義と信じているなら,我が国の新聞テレビ週刊誌は大変驕慢で産業経済にとって危険な存在と定義する必要がある。

 1980年頃から一時期,非平衡熱力学という物理化学論が一世を風靡して,社会現象や経済にまで適用されるということが起こった。誤解を恐れずにフツウの熱力学を極簡単な形にすると,「AからBという状態に変化する現象を,最初と最後に注目して数式に記述する」学問である。東京から品川へ移動,みたいなものである。非平衡熱力学というのは,途中の変化過程を重視するが仮定が多くて掴みどころがない。電車の速度変化(所要時間ではない!)を見てルートを決めようというようなものである。条件により山手線内回り(新大久保経由)でも正解となる。ところが,流行りは恐ろしいもので,猫も杓子も非平衡熱力学で,研究費もこの言葉が書いてないと取れない,株価変動や社会現象も非平衡熱力学的解釈で,といったことが起こった。産業や経済活動では根拠なき話だったのだが熱病の如く広まった。TV解説者も非平衡熱力学的に〇〇するというような訳の解らないことをまくし立てた。

 今,AIで似たようなことが起こりつつある。「材料開発にAI革命」(日経新聞2019/2/17)に代表されるニュースが度々出てくる。この記事の場合,半導体の化学組成最適化をAIで成功したというしっかりした先進的な科学ニュースである。マテリアルズ・インフォマティックス(MI)という有用手法なのだが,固体混合比率には適用できても化学反応には使えない。MIは既往データから演繹的に推測するので,化学反応,特に分離精製工程を厳密に予測できない。他方,学術論文は成功が記載されているのでデータベースとして偏りがあり,特に化学合成で重要な失敗が解らない。MIは今までの論文のあり方を変えないと化学合成では使えない可能性が高い。また,MIに偏重しすぎると,基本情報は同じであるので誰が計算しても同じ結果になる。結果的に,どれも大差がないため牛乳の特売のような価格競争に陥る。特許は,AIが出力するため網羅的記述になり,意味不明となって係争が頻発するだろう。このまま科学者よりもAIが重要という変な風潮が助長されると,かえって化学の発展の妨げになる恐れがある。

 偏った目で物事を捉える市民活動家的なTVというのは,戦後から平成にかけての遺物なのだろう。拙著で度々NHKの報道を批判しているが,先日のNスペ「科学技術立国の苦闘」はタイトルと中身がいまいち一致していなかった。話の主人公の田中耕一氏(ノーベル田中さん)の失敗を見つめ直す話は技術者にとって重要なポイントなのだが,人間ドラマに仕立てようとした構成のまずさで肝心なことがボケてしまった。リベラルアートの観点から科学技術を評価することは大切なのだが,複雑化に拍車がかかっている科学技術を日本のマスコミ的「保守政権批判精神」でレポートすることは,「水からの伝言」的疑似科学を国民にばらまくきっかけになる。科学技術再生を目指すなら,特に化学に対する偏見を排除するためにも,放送法を改正して科学専門チャンネルを設けられるようにしてもらいたい。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1296.html)

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