世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
今日のドイツの成功をもたらした改革(その1):リーダーの視点から
(東京大学政策ビジョン研究センター 客員研究員)
2018.02.19
ドイツが「欧州の病人」と呼ばれた時代のドイツの研究
今から30年前の1988年,当時日本はバブル景気に沸き,戦後からの奇跡的な継続的経済復興の最終期を迎え,戦争は(少なくとも戦後育ちの人にとって)はるか彼方に遠のいていた。しかし,その1988年の秋,私は憲兵が厳重に警戒するドイツのベルリンの壁のわきに立ち,ドイツの戦争はまだ終わっていないことを深く実感した。そしてその不安定な危うい冷戦の状況が永遠に続くように思えた。当時はドイツの首相をはじめ,誰もが冷戦もベルリンの壁もまだまだ何十年も続くと考えていたのだ。しかし,驚くべきことに,私の初のベルリン訪問からちょうど1年後の1989年11月に,ベルリンの壁が突然崩れた。ようやくドイツにも本当の意味で戦後が訪れることになったのである。
そして,10余年後の2001年,私は英国の大学での博士研究のテーマとして,ふと日独の比較研究を思い立ち,4月のイースターの週に,再びベルリンの地に降り立った。日独のイノベーション・システムと日独のハイテク企業のイノベーション経営を比較してみようと思ったのである。その時,私にはドイツ人の知り合いは一人もおらず,今から考えれば,至極無謀な思いつきだった。当時は,80年代の日独モデル称賛の時代からは考えられないくらい,日独は落ち込み,逆に米英は経済的にも,イノベーションの面からも大きく飛翔していた。このためその頃日本が学ぶ相手は米英という風潮が強く,ドイツは日本の状況よりさらに悲惨だというのが,一般的な意見だった。それなのに何を間違ってか,私はドイツに関心を持ち,しかも誰ひとり知る人のいないベルリンへと旅立ったのである。
2000年代前半頃のドイツは「欧州の病人」と揶揄される経済状況に陥って,政府や企業は厳しい改革を断行しており,客観的に見れば,とても一学生の博士研究などに付き合っているようなときではなかった。まして,そもそもドイツ企業はあまり大学関係者の研究には時間を割きたがらない風習があり,中でも世界的な大企業は常に多くのインタビューやアンケートの依頼があるので,まず博士学生への協力などはしないだろうと言われていた。
だが,この無謀な極東からの異邦人の訪問者を,ドイツは暖かく迎え入れてくれた。最初のベルリン訪問で,私がインターネットや政府関係機関の間接的な紹介で何とか面会のアポを取った3人の方たちが,「ドイツを研究したいのなら」と何人かの関係しそうな知人を紹介してくれた。その紹介を無駄にしないため,私は1か月後またドイツを訪れることになり,それがまた次の紹介へと繋がり,結局私はその年計7回英国からドイツに飛んで行った。こうして徐々にドイツのネットワークを拡大した私は,ドイツでのフィールド調査のため,翌2002年には2,3か月ドイツのマックス・プランク研究所などに居候し,さらに2003年には1年間現地で深く研究するためドイツに移住するにいたった。
結局私のゼロから始まった2001年のベルリン訪問から2,3年後には,ドイツの世界的に名だたる多くの大企業が,私の博士研究のため,数多くのインタビューに応じ,詳細な50ページ以上ものアンケートに回答してくれ,まるで無から有をなした「わらしべ長者」のようだった。そしてドイツと日本の方々の手厚い協力のおかげで,私の博士研究は最終的にいくつかの欧米の国際学会で賞をもらうこととなった。
私はドイツについて深く知るにつれ,当時のドイツの政府や企業の改革が正しい方向性を持っていると感じ,それがバブル崩壊から10年経っても低迷する日本でも必要な改革だと思うようになった。今でこそドイツの経済的躍進が注目されているが,当時の日本は,私がいくらドイツの変化のことを話しても,「欧州の病人」というイメージが大変強く,ハッキリ言って,誰も相手にしてくれなかったが……。(続く)
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