世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.655
世界経済評論IMPACT No.655

開発論のパラダイムについて

宮川典之

(岐阜聖徳学園大学教育学部 教授)

2016.06.13

 開発論すなわち開発経済学における主流学派(パラダイム)の推移について語ることは,たいへん勇敢な行為なのかもしれない。というのも筆者も含めて研究者は誰もが,なんらかの学派に属していながら客観的にパラダイムを評価することを余儀なくされるからだ。日本を代表する開発経済学者である石川滋と初期構造学派のミュルダールにしたがって,主体の価値前提を前もって明らかにしておくなら,筆者の拠って立つスタンスは構造主義に近いところにある。それゆえ筆者にとって,プレビッシュやルイスの存在はいまなお魅力いっぱいで重要であり続けている。初期の開発論を代表する一人であるハーシュマンも含めて,かれらについてはそれぞれ評伝が著されている。管見によれば,それらはいずれも名著である。それだけかれらの存在は固有の教説のみならず,一般的開発史の中で果たした思想的および理論的役割は,かなり大きいものであったといえる。

 ところで開発論のパラダイムをあつかう論考は,このところかなり多く提示されている。否,洋の東西を問わず昔から多かったといえるかもしれない。本コラムでは,初期から今日までパラダイムがどのように変遷してきたか,および近年はどのような状況にあるかについて考えてみたい。

 開発論の嚆矢はローゼンシュタイン・ロダンによるビッグプッシュ説であるとされている。国家主導による開発が提唱されたのだが,そのような考え方の背景にケインズ思想の存在が大きく影響したものと考えられる。そのことは1950年前後から1970年代半ばまで構造主義がパラダイムの第一局面を特色づけたが,その背景にケインズ思想が影響していたことと大いに関係している。市場の失敗に対して国家が介入することを是とする雰囲気が,満ちていた。構造主義のばあい,国家主導型開発すなわち輸入代替工業化であった。またプレビッシュが初代事務局長を務めたUNCTADでは,途上国の象徴である一次産品問題が主要なテーマとなっただけでなく,1970年代には先進国から一方的に譲歩を引き出すこととなる一般特恵関税制度もじょじょに制度化された。かくしてパラダイムの第一局面においては,開発政策として輸入代替工業化,一次産品共通基金,および一般特恵関税制度があげられ,世界銀行で使用された理論としてはツー・ギャップ(外国為替制約と貯蓄制約)説と余剰労働移動説であり,いずれも構造主義を特徴づけるものであった。

 1970年代になると事態は一変する。ニクソンショックと第一次オイルショックを経て,先進国経済ではスタグフレーションが蔓延する。インフレと景気停滞とが併存するような想定外の出来事が,現象となって現われたのだった。結果的にケインズ経済学の退潮となり,新古典派経済学が復権を果たす。国際経済面では新興工業国家群(NICs)が注目を集め,これらの国や地域では,保護主義よりも自由貿易に近いスタンスをとったところが良好な成果を上げたとされた。その結果保護をともなう国家主導の輸入代替工業化は否定され,あらゆる次元での自由化政策が賞賛されるようになる。1980年代初期に,世界銀行のチーフエコノミストも構造学派のチェネリーから新古典派のクルーガーへと入れ替わった。そして貿易の自由化,資本の自由化,公営企業の民営化などを是とし,政府の失敗を非難するとともに市場原理主義を唱える新自由主義が優勢となり,1990年代になるとワシントン・コンセンサスが影響力をもち,世界銀行とIMFによる構造調整貸付(SAL)が途上国世界を席巻した。かくして1980年代からアジア経済危機が勃発する20世紀末までがパラダイムの第二局面であり,新古典派もしくは新自由主義が勢力を保持した。

 アジア経済危機の主要因は行きすぎた資本の自由化であるとされ,世界銀行はSALから貧困削減戦略文書(PRSP)型援助へと宗旨替えすることなる。そのときのチーフエコノミストはスティグリッツであった。この局面から国家と市場の役割が議論の対象とされ,開発論においては,スティグリッツとアマルティア・センの斬新なアイディアが影響をおよぼすようになる。スティグリッツは情報の非対称性の問題を明らかにした功績で,センは人間開発指数の開発と発展に関する独特の着想を哲学面で影響をあたえた功績で,それぞれノーベル経済学賞を受賞した。

 21世紀に入ってからアメリカ新制度学派の影響もみられるようになる。スティグリッツとセンの登場あたりから,パラダイムの第三局面が形成されようとしているように見えた。コースやノース,さらにはアセモグルらの新制度学派は,財産権,取引費用,経路依存性および歴史的決定的岐路という斬新なアイディアを提示した。さらにいうなら,国や地域によっては採るべき政策はそれぞれ最もふさわしいものがよいという成長診断派のロドリックも注目されている。もっといえばオカンポやランス・テイラー,リン(林毅夫)に代表される新構造学派も復活の気配をみせつつある。リンは2008-2012年に世界銀行のチーフエコノミストを務め,中国を代表してルイスの余剰労働説を支持する立場である。

 かくして開発論は現在,なんらかの教説が絶対的な存在となっているとはいえず,パラダイムとしてはカオス的状況にあるといったほうが正確であろう。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article655.html)

関連記事

宮川典之

最新のコラム