世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
穀物増産に成功したインド農業の盲点
(拓殖大学 名誉教授)
2024.08.12
はじめに
かつて長らく食糧不足に直面していたインドではあるが,2001年以降インドは世界最大の米の輸出国になっており,22年度には世界の米輸出(5560万トン)の4割を占めるまでになっている。2020年度から22年度までの3年間,インドの穀物輸出は合計8500万トンに及び,そのうち71%は米が占めている。
1960年代後半以降,「緑の革命」の下で高収量新品種,灌漑,機械化,農薬・化学肥料など近代農法の導入で急先鋒をなし,いちやく農業先進州として躍り出たのがパンジャーブ,ハリヤナ両州であった。1960年当時,インド全体の穀物(米・小麦)生産に占める上記両州のシェアは5%でしかなかったが,23年には19.7%にまで拡大している。さらにはインドの農業世帯の約9割が農地2ha未満の小農で占められている中,上記両州では中農・富農が多く存在するため,政府調達に占める上記両州のシェアが米では33.9%,小麦では70.2%に達している。
他方,上記両州では食糧増産に顕著な成功を収めたものの,「緑の革命」の導入に伴う負の側面が大きく表面化し,今後の持続可能性という観点から疑問符が付けられるとともに,穀物増産に向けての既得権が強固に形成されており,インド農業の新たな展開を阻む要因にもなっている。以下,パンジャーブ,ハリヤナ両州に焦点を当てつつ,食糧増産に成功したインド農業が直面している課題と今後の展望について検討してみよう。
深刻化する生態的災害
インドの食糧安全保障において中核的存在をなしているパンジャーブ,ハリヤナ両州では高度な集約農業が展開され,それに並行して水不足や土壌汚染といった深刻な環境問題が進行している。とりわけ水稲は他の作物に比べて数倍もの量の水が必要となる作物である。灌漑用の水の71%は地下水の汲み上げによるものであり,天水によって補充される水量の1.47倍に及んでいる。そのため,2000~22年の期間中,上記両州での地下水位の低下は約11〜12メートルに及んでおり,タミル・ナードゥ州を除いて他州に比べて突出したレベルになっている。
高収量新品種の米・小麦の栽培には大量の化学肥料と農薬の投入を伴っており,そのため地下水の汚染,さらには癌,腎臓障害,先天性疾患を含む様々な健康障害が地元の人々の間で引き起こされている。インドの食糧バスケットを充たす上で上記2州が大きく貢献していることを考えれば,土壌や水の問題,さらには健康を脅かすといった問題は単に上記両州特有の問題にとどまらず,インド全体に及ぶ問題でもある。
手厚い農業支援策
インドでは「緑の革命」導入以降,米,小麦の増産を図るべく,灌漑用電力や肥料面での手厚い補助が講じられてきた。農業支援策を講じる上でカギを握ってきたのは,中央政府,さらには州政府の取り組みである。とりわけ農業支援策を熱心に推進してきたのがパンジャーブ,ハリヤナ両州であり,そこでは水と電気については料金がタダ同然の状況にある。ちなみにパンジャーブ州の場合,2023年現在,米作に対する中央・州政府の1ha当たり補助は生産コストの76%相当に及んでいる。そうした収益性の相対的高さを反映して,1970年度から2021年度までの期間中,パンジャーブ州の作付面積に占める米と小麦のシェアは48%から85%へと大幅に拡大したが,こうした傾向はハリヤナ州でも同様である(注1)。
灌漑用電力や肥料面の手厚い補助に加えて,インドでは農業所得は課税対象から免除されており,その恩恵を享受できたのは基本的には一定規模以上の中農,富農である。2017年にインド全土で農民の窮状を訴える抗議運動が広がった際,2018年度予算案において政府調達の際の最低支持価格(MSP)が提示され,米や小麦を含む23品目の農作物を対象にして平均コストの少なくとも50%を上乗せした価格が適用されることになった。さらには総選挙を控えた19年度の暫定予算案において,耕地面積が2ha以下の1億1000万の自作農を対象にして,毎年,6000ルピーを各人の銀行口座に振り込むという支援制度が導入された。
改革に阻む強固な既得権
インドでは多くの農民を貧困状況から脱却させるべく,農業部門を対象にした幾つかの改革が目指されているものの,皮肉にも抵抗勢力としてそれに大きく立ちはだかったのは農業支援策の下で既得権を享受した中農・富農であった。
実際,インドでは農産物の配給制度を維持すべく,農産物は州政府の農業マーケット委員会(APMC)支配下の指定市場(マンディ)を通じて販売することが求められ,そのため農民は自ら農産物の出荷先を選択できるマーケティングの自由が基本的に奪われる結果になっていた。そうした束縛を打破し,農業サプライチェーンの改善を図るべく,2021年9月,農業関連三法(注2)が成立したが,それに猛反発したのが,APMCを通じてMSP適用の恩恵に浴していたパンジャーブ,ハリヤナ,それにウッタル・プラデーシュ(UP)西部の富裕農民であった。執拗に展開された彼らの抗議運度に屈服する形で,翌22年11月,モディ政権は農業関連三法の撤回を発表した。
さらには総選挙を目前に控えた今年2月,全作物を対象にしたMSPの法的保証措置,さらには前国農村雇用保証法(MGNREGA)の下での雇用保証期間の倍増と日当の大幅な引き上げを求める示威運動がパンジャーブ,ハリヤナ,UPの農民を中心に展開された。
おわりに
食糧安全保障の観点からして,確かにインドの農業政策は食糧増産という面で明らかな成功例を示している。ただし,それは米,小麦中心の穀物増産に偏したものになっている。通例,所得の上昇に伴い,米,小麦以外の雑穀,野菜・果物,牛乳・肉など蛋白質やビタミンに富んだ食べ物の比重が高まることを考慮すれば,インドの農業政策は栄養安全保障の観点から修正を迫られている状況にある。
さらには農業の持続可能性という観点からして,水問題,環境問題への対策が先送りできない状況になりつつある。昨今,パンジャーブ州では水,電力多消費型の米以外の他の作物への作付け転換を促すべく,1ha当たり17,500ルピーの作付け転換奨励金(注3)を提示しているが,それがいかなる効果をもたらすのか,注視されるところである。
さらには農業の付加価値を高め,農業関連事業で若年層に魅力的な雇用機会の創出を図るためには,農業サプライチェーンの改善が求められるが,既得権に固執する中農・富農からの抵抗をいかに克服できるかがそこでの課題とされる。
[注]
- (1)Reena Singh, Purvi Thangaraj, Ritika Juneja, and Ashok Gulati, “Saving Punjab and Haryana from Ecological Disaster: Re-aligning Agri-Food Policies,” Policy Brief 21, ICRIER, July 2024.
- (2)①「農産物取引・販売(促進・円滑化)法」,②「価格保証及び農地サービスに関する農民(地位向上・保護)法」,③「重要物資(改正)法」の三法である。
- (3)従来,パンジャーブ州では水稲に対する中央・州政府から電力や肥料の補助は1ha当たり38,973ルピーに及んでいた。
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