世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3475
世界経済評論IMPACT No.3475

“日台の絆”の根源:八田與一の貢献と銅像に巡る経緯

朝元照雄

(九州産業大学 名誉教授)

2024.07.01

 本稿は「八田與一物語:台湾で最も尊敬された日本人・嘉南大圳の父」(世界経済評論Impact No.3418)の続編である。前掲のコラムでは以下のことを紹介した。

 八田與一は東京帝国大学土木科を卒業後,台湾総督府土木局に赴任,「桃園大圳」の建設プロジェクトに携わった。1920年9月,嘉南大圳プロジェクトが着工,八田は曽文渓の支流官佃渓に巨大貯水池「烏山頭ダム」を建設する。ダム周辺には「烏山頭トンネル」や暗渠を掘り,曽文渓の多くの水源を烏山頭ダムに引水した。1942年5月8日,八田は日本政府の命令でフィリピンに派遣される途中,乗船した「大洋丸」が五島列島付近で米国の潜水艦「グレナディアー」に撃沈され殉職。八田の遺骨は烏山頭ダムの畔に埋葬された。後に八田の傍に永遠に寄り添うことを選択した妻・外代樹は烏山頭ダムの放水口に身を投じた。

 本稿では“日台の絆”の根源と「八田與一銅像」の数奇な巡り合わせについて紹介する。

銅像の頭部切断と復原

 烏山頭ダムと嘉南大圳の建設を終えたプロジェクトチームは,八田の銅像を建立することを提案した。前掲のコラムでは,八田は提案を固辞したが,最終的には,作業服と作業靴を身にまとい,自然体の姿の像とすることを条件に受け入れた。銅像は日本で鋳造され,1931年7月に烏山頭ダムの現在の場所に設置された。ここまで前掲のコラムでも紹介した。

 その後,国家総動員法に基づく「金属類回収令」が発令された。「金属類回収令」(昭和18年8月12日勅令第667号)とは,戦局の激化により武器生産に必要な金属資源の不足を補うため,官民所有の金属類を回収しこれに充てる目的で制定されたもの。一般家庭の鍋釜などはもとより,マンホール,建物の鉄柵や手すり,銅像,寺院の仏具や梵鐘など鉄や銅・青銅製品が回収の対象となった。この回収令による金属類の供出強要が起きている最中,「八田銅像」が行方不明となった。恐らく嘉南農田水利会の関係者が,こっそりと何処かに隠したと推測できるが,要するに,戦時の「金属類回収令」で兵器の原料として熔かされるピンチから「八田銅像」は関係者により救われた。

 その後,銅像は元の場所に戻されたが,1949年以降の蔣介石政権時には日本の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされたため,水利会の関係者により再び倉庫に隠され,1981年に,ダムの畔の現在の場所に設置された。

 月日は流れ,2017年4月15日。親中団体の中華統一促進党メンバーの2人が八田與一の銅像の頭部をノコギリで切断する事件が起きた。“植民地統治の美化”が不満であったという。後にこの2人には5カ月と4カ月の有期刑が科された。4月18日,当時の台南市長賴清德(現総統)は日本語の手紙で,八田の親族に宛て,銅像の状況報告を含めた詫び状を発した。「銅像破壊事件」を知った台湾の化学・バイオ関連企業である奇美グループの創業者許文龍は,奇美博物館所蔵の八田與一の胸像(1990年代のレプリカ)を無償で貸与,レプリカの胸像頭部を破壊された銅像に溶接,銅像が復原された。同年5月7日にはメディアに公開し,この年の慰霊祭(水利会,台南市政府主催)には,八田の親族も参列した。

八田の業績と貢献を再評価

 八田は烏山頭ダムと嘉南大圳の建設に大きく貢献したが,当時は水利会など関係者の間でしかその存在は知られていなかった。

 日本で八田與一の存在を広める契機を作ったのは,1980年に文部省の海外派遣教師として台湾高雄市の日本語学校に赴任し,3年間を過ごした古川勝三教諭である。台湾人の友人に連れられて烏山頭ダムを見学に行き,初めて「銅像」の存在を知った。当時の日本では八田の業績は殆ど知られておらず,古川氏による関係者への取材で,八田の業績は高雄日本人会の会報誌に連載され,後にまとめた原稿を基に台湾で出版し,日本に帰国後改めて『台湾を愛した日本人』として上梓した(この書籍の改訂版は土木学会著作賞を受賞)。

 2002年10月,慶應義塾大学の学術サークル「経済新人会」が李登輝元総統に学園祭「三田祭」での講演を依頼した。しかし,大学の学園祭実行委員会がこれを却下。外部の会場で講演会を実施することとしたが,日本政府が李登輝元総統への査証発給を拒否したため,訪日も講演も実現しなかった。この講演会で予定された講話の内容は,後日『産経新聞』朝刊(11月19日付)に「日本人の精神」のタイトルで全文が掲載された。その中で李登輝元総統は,八田與一が台湾にもたらした業績と貢献を称えている。古川勝三氏による『台湾を愛した日本人』は小さな出版社から上梓されたため,一部の読者にしか手にすることはできなかったが,李登輝元総統の講演内容が全国紙に掲載された後,多くの日本人が八田の業績に着目するようになった。

 2004年5月,「金沢ふるさと偉人館」に八田が“金沢出身の偉人”として選出された。金沢市今町の八田の生家近く,八田が通った花園小学校の校庭には,八田の胸像が建っている。この胸像は前述の奇美グループの許文龍氏が金沢市に寄贈したものである。その後,金沢市の教科書でも八田の業績と台湾への貢献を紹介するようになった。現在では,金沢市の殆どの子供たちが八田の業績を知っているという。

日台の絆の根源

 八田生誕120周年の2006年,生家は国の登録文化財に指定され,前庭には生誕地碑と顕彰碑が建てられた。この年,台湾で開催された慰霊祭には追悼音楽会が加わり,八田の長男晃夫氏が列席した。氏は「いまから85年前に私はこの地で生まれ,その年には嘉南大圳が着工された。烏山頭には10年も住んだ。私は台湾を愛し,その気持ちは皆様に勝るとも劣らない」と述べた。

 2009年,日本土木学会は八田が設計・建設した烏山頭ダムを「海外初選奨土木遺産」と認定した。

 2011年,烏山頭ダム畔に八田記念パークが開園され,八田とその他の技師が住んだ住宅が再現された。「嘉南大圳着工90周年記念式典」には,石川県出身の森喜朗元首相と八田の親族が列席した。森元首相は「日台,石川と台南のこの縁がますます大きく広がりを見せるよう心から願う」と挨拶した。

 黄偉哲台南市長は「100年後の今,台南市と金沢市の2つの都市の交流が推進され,台湾から300人以上のマラソン愛好家がチャーター機で八田の故郷に行き,金沢市で開催されたマラソン大会に参加し,現地で大きな反響を及ぼした。金沢と台南の両市長と議会は互いに交流し,また,金沢と台南の小学校と中学校は姉妹校提携を結び交流を深めている」と挨拶した。近年,烏山頭ダムと嘉南大圳は日本の高校生の卒業旅行の訪問スポットになっている。

 2021年の「嘉南大圳着工100周年記念式典」で,当時の蔡英文総統は「100年前八田技師が嘉南大圳を設計した時,誓願は“100年後の台湾の農民に,灌漑の水があるように”だった。この100年間,嘉南大圳の水の流れは止まることはない。気候変動問題が起きる現在だが,当時の八田技師の勇気と洞察力,そして実行力に学び,我々も100年後の子孫のために,優れた環境を残すように協力する」と述べた。

 今年1月に発生した能登半島地震の被災地支援のため,台湾の民間の人々はわずか半月で寄付金25億円以上を集め被災地に贈った。この“日台の絆”も八田の台湾への貢献が源であり,“善の循環”をもたらした基礎だと筆者は深く感銘を受けている。

[参考文献]
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3475.html)

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