世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3155
世界経済評論IMPACT No.3155

タイにおける司法主導政治

山本博史

(神奈川大学 名誉教授)

2023.10.16

 2023年9月20日,最高裁はパンニカー・ワニットに対し,被選挙権を一生涯はく奪する判決を下した。パンニカーがチュラローンコーン大学卒業式(2010年)にSNSに投稿した内容が2017年憲法235条「倫理基準に基づく重大な違反」(2017年憲法で初めて規定された)であると認定した。現行法体系では,「倫理基準に基づく重大な違反」は国家汚職防止委員会が訴追を検討し,最高裁判所が判断する法制度となっている。これまでもたびたびタイの法曹界で法原則や法正義が問題とされた独立機関による判決であった。

 独立機関はタイにおいて司法の信頼を失墜させてきた司法主導政治の中心に座る組織である。その起源は1997年憲法で憲法裁判所や国家汚職防止委員会などの7つの独立機関が設立されたことに始まる(伝えられるところでは,その構想は1991年のクーデターにさかのぼることができるという)。1997年憲法は議会政治を強化し健全な議院内閣制の育成を目的としたが,同時に汚職に染まりがちな政治家を監視するためこれら独立機関を創設した。当時政党政治家はジャオ・ポーと呼ばれる地方ボスが多く金権体質で汚職に走りがちであったため,独立機関設立はそれなりに合理的な制度創設であった。しかし,その制度は監視するものがいないという欠点をもっていたため,権力を握っている保守層が恣意的にその制度を運営し,敵対する政治勢力を攻撃する道具になり下がった。彼らの錦の御旗は王制護持であり,本当に守りたいのは自らの既得権益である。

 2006年のクーデター前後の政治混乱打開のため,プーミポン国王の司法の積極的な関与を期待するとの訓示から,司法が政治に積極的に介入するようになった。独立機関を主体とした司法の介入は司法主導政治と呼ばれ始める。どこの国においても司法判断は施政者側に有利に裁定されることが多い。問題はタイの場合は,明らかに法正義に反する一方に偏った司法判断が保守エリート層の既得権益を守るために政治利用されることである。2006年クーデター以後は司法主導政治が継続して行われており,偏向判決の程度が目に余ることである。最近亡くなられた顕学ニティ・イアオシーウォンは一方に肩入れする司法主導政治を,どちらの側に属するかで法律の運用が異なり,国家が成り立たないと,その二重基準を痛烈に批判していた。

 パンニカーは前進党の前身で解党された新未来党主要役員で党の「顔」であった人物である。彼女はすでに2020年2月の憲法裁判所による新未来党解党判決により党役員としての責任を問われ10年間の被選挙権停止の判決をうけている。被選挙権停止後も,前進党を補佐するため,進歩団(カナ・カーオナー)という組織を結成し活発な政治活動を行っており,解党された新未来党党首タナートーン,幹事長ピヤブットとともに,新未来党の後継政党である前進党と連携し,今年5月の総選挙における集票活動で大きな役割を担っていた。

 パンニカーの判決は,彼女がSNSに挙げた内容が,「王制を擁護」するタイ国民の義務に違反したと断罪した。この判決に対し,タイの法学者の一部は,問題とされた掲載は彼女が政治家になる9年前2010年の投稿であり,「法の不遡及原則」に照らすとあり得ない判決と強く批判している。さらに,2017年憲法が規定した「倫理基準に基づく重大な違反」に関する概念の曖昧さから判断基準が揺らぎやすいことも問題としている。

 今日のタイ政治状況は,今回の選挙により対立軸が大きく変化した。前進党は38.5%の支持を受け151議席を獲得し第一党となった。しかし,クーデターによって創られた2017年憲法の制度枠組みが前進党政権を許さず,前進党の党首ピターのマスコミ株式所有や党の不敬罪改正という方針を,王制批判として論戦化し組閣を阻止した。今回の選挙結果に危機を感じた体制側はこれまで民主派の騎手であったタイ貢献党を懐柔することに成功し,旧保守勢力政党との連立政権樹立に成功した。タイ貢献党の事情としては実質的支配者であるタクシンが帰国を希望したことが取引材料となった。タクシンの帰国と保守勢力にとって脅威である前進党の排除が取引され,現行の政権樹立が妥協の産物として成立した。前進党政権樹立を阻止し,8月22日タイ貢献党の政権樹立となった。ただ,国民における前進党人気は高く,今回のパンニカーの被選挙権はく奪も,司法主導政治による保守勢力による革新勢力潰しの判決と国民の大多数は考えている。前回の新未来党解党は若者の広範囲な反政府活動を引き起こし,前例のない王制批判を引き起こす事態となり保守勢力を追い詰める結果となった。法は誰に適用するにしても同じ基準で適用しなければ正当性を喪失する。前進党は解党されることをすでに想定しているといわれるが,国民の支持をうけた改革を志向する民主勢力を理不尽な「法」執行で抑えても解決にはならないのではないか。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3155.html)

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