世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
ビジネス原理主義
(杏林大学総合政策学部 教授)
2023.02.06
夫婦の両方が被雇用者として給与を得ていることを,かつては「共稼ぎ」と言った。今はこの言葉は使うべきではないものとされていて,「共働き」と言わねばならないのだそうだ。たしかに,専業主婦・主夫の家事労働は,GDPにカウントされないし,持ち家の場合のような帰属計算もされてはいない。
しかし,かりに夫婦のどちらかが家事・育児に専念していたとしても,彼・彼女が「働いている」ことになんら変わりはない。実際,家事・育児のサービスを外注すれば,相応の対価を支払わねばならないのが普通である。つまり,夫婦はどのような形態であれ,みな「共働き」なのである。夫婦の双方が給与所得を得ている状態を,それとして区別したいのであれば,やはり「共稼ぎ」と言うしかあるまい。
それにも関わらず,それを「共働き」と言い換えることを推奨する人々には,二つの観念が歪んだ形で潜在しているように思う。一つは,お金をもらうことこそが「働く」ことであり,そしてもう一つは,それでいて「稼ぐ」という言葉の響きには,ある種の品位のなさを感じる,ということである。
後者の観念の歴史は古い。古代ギリシャにおいて,アリストテレスは文字通り「お金を稼ぐ」行為を,自然に反するという理由で非難されるべきものとしている。中世のキリスト教社会においても,『マタイによる福音書』のなかでイエスが述べているように,お金持ちが神の国に入るのは,ラクダが針の穴を通るより難しいのである。
それが宗教改革によって——マックス・ウェーバーが述べたように——,勤勉を通じて現世において財産を築くことが評価されるようになった。プロテスタント,とりわけカルヴァン派の教えは,勤勉とその結果としての財産を,神に救済されていることの確証とするものとなっていった。
さらに18世紀後半になると,ヴォルテールやスミスによって,商業社会というものは,最良のものではないにしても,それなりに機能するものであることが示された。こうしてわれわれは,「お金を稼ぐ」という響きにまつわるある種の品位のなさを,机の引出しにそっとしまうことで,ガツガツと必死になって働き,経済成長を実現し,相応に豊かになったのである。三木清が述べたように,近代における企業家は,古代の哲人,中世の聖人に取って代わる地位を得た。もちろん,それが場合によって品位に欠けるという感覚は,相変わらず机の引出しのなかにあって,なくなったわけではないのだが。
一方で,前者,すなわち賃金・俸給をもらうことが働くことであるという固定観念もまた,近代以降,相対的に新しいものである。現代におけるそれは,大学生の卒業式でいやというほど聞かされる「社会に出る」という言葉にも表れている。これも私の嫌いな言葉だ。たとえ小さな子供であっても,さまざまな社会のルールのなかで生きている以上,社会に出ているのである。しかし世間で言う「社会に出る」とは,「お金を稼ぐようになる」という意味なのだ。しかも,大学生はすでにアルバイトをしてさんざん稼いでいるのだから,話を正規雇用に勝手に限定することで,結果として非正規雇用に対する差別をも伴っている。それでも机の引出しにしまった品位のなさが気になるのか,それを「社会人」や「社会に出る」などと言っているのである。
おかげで,いまや社会は国を挙げて,大学生を正規雇用でお金を稼げるようにすることに——おっと,失礼!社会人として社会に送り出すことに——執心しているかのようだ。企業を定年前に退職した人が教授になり,「実学」を教える。加えて,「キャリア教育」だの「資格教育」だの「◯◯リテラシー」だのと,伝統的な学問はほぼそっちのけで,学生はもちろん,教職員がこぞって内定獲得に躍起になっている。
私はそのような社会を「ビジネス原理主義」と呼ぼうと思う。その住民たちにとって,社会人とはお金を稼ぐ人のことである。そしてその住民たちは机の引出しにしまったものが時々気になるのか,「お金を稼ぐ」という言葉の響きには思い出したように嫌悪感を示すにもかかわらず,働くこと=お金をもらうこと=いちばん大事なこと,という固定観念には,これでもかというほどどっぷりと浸かっているのである。
今流行のSDGsや「脱成長」が,果たして「ビジネス原理主義」の社会と両立するかどうかは決して自明なことではあるまい。
「共稼ぎ」を「共働き」と言い換えたがった人々は,きっと机の引出しにしまっておいたものを久々に取り出したに違いない。しかし,すでにビジネス原理主義にどっぷり浸かっている自分に注意しないと,まるで時代劇に出てくる悪いお殿様と一緒になってしまうだろう。つまり,士農工商の一番低い身分である商人に「そちも悪よのう」と軽蔑的に言いながら,当たり前のように賄賂をしっかりと受け取るのだ。
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