世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
ロシアのウクライナ侵攻と「チェルノゼム」(黒土層)
(公益社団法人 国際労働経済研究所 所長・京都大学 名誉教授)
2022.09.19
ウクライナには,「チェルノゼム」(Chernozem)という豊かな黒土層がある。層は,4~16%の「腐植層」(humus)を含んでいる。腐植層は動植物の死骸が分解して生まれた有機物からなる土壌のことである。ウクライナは,国土の68%がチェルノゼム層で,世界のチェルノゼム層の4分の1も占めている。
世界には2つの大チェルノゼム層がある。1つは,ウクライナからロシアに至るユーラシアの「大草原地帯」(the Steppes)。2つは,北米中西部の「グレート・プレーンズ」(the Great Plains)。これは,ロッキー山脈の東側と中央平原の間を南北に広がる台地状の大平原である。
チェルノゼムは,スラブ語の‘cherna’(地球の)と‘zemlya’(土地)との合成語である。チェルノゼムが世界的に有名な用語として使われるようになったのは,ロシアの天才的な地質学者(geologist)のヴァシリー・ドクチャエフ(Vasily Dokuchaev,1846~1903年)が,1883年からこの土壌に関する研究成果を矢継ぎ早に発表するようになってからである。研究論文は,『ロシアのチェロノゼム』(Russian Cheronozem)というタイトルの連作で,ドクチャエフは,これを博士論文のテーマにした。論文は,ロシア各地のチェロノゼム(ロシア語)の共通点と差異点を詳細に記述したものであった。各地の土壌がどのような経緯で形成されたのか,土壌の化学的な成分はどのようなもので,どのような違いがあるのか,それぞれの差異を区分けする基準はどのように求めたら良いのか,こうした手法が,後世の人々によって,「遺伝学的土壌科学」(genetic soil science)と名付けられるようになったものである。
農地の表土が,農産物にどう影響するのかを分析しようとした試みは比較的新しく,ヨーロッパでも18世紀以降になってからである(Vann Herumonnt, 1579~1644年)。光合成が発見されたのはやっと19世紀に入ってからである(Theodor Saussure, 1767~1845年)。地質学を本格的に土壌学に導入したのは,19世紀半ばのフリードリッヒ・ファロウ(Friedrich Fallou,1794~1877年)であった。この時,初めて「自然体」(Natur Wesen)としての土壌が意識されたのである。そして,Fallouの「科学的土壌学」(Pedology)という造語がドクチャエフに受け継がれた。ちなみに,いまでは普通の語として「水平線」(horizon)という言葉が使われているが,これは,有機物を含む土壌の厚さを示すドクチャエフが多用した土壌学の専門用語である。
ドクチャエフは,ロシアのチェロノゼムが頻繁に旱魃に見舞われてきた原因を分析することをライフワークとしてきた。とくにロシアでは,1870年代半ばの旱魃は国家の危機を生み出した。そうした危機下でのドクチャエフの研究が現在の歴史学にも影響する土壌科学を生み出したのである。
現在のロシアは穀物の大輸出国である。それは世界一の水準に達しているロシアの土壌学がもたらしたものではあるが,それだけではない。詳細な記述をする紙幅はないが,ロシアの農業は,完全に非社会主義的な大規模な国家資本主義による巨大企業から生み出されたものである。これらロシア企業がウクライナの黒土を狙っているのである。この見方を科学ジャーナリストのキャサリン・ボン(Kathelijne Bonne)が,ウェブサイトのGondwana Talks(09/03/2022)で示した。「ロシアがウクライナに侵攻する目的には,ウクライナの肥沃な黒土があることは疑えない」と。
[参考文献]
- Bonne, Kathelijne[2022], "The black gold of Ukraine and the most fertile soils in the world", Gondwana Talks.
- 久馬一剛[2019],「近代土壌学の先駆者たち」,『日本土壌肥料科学雑誌』第91巻・第1号。
- 筆 者 :本山美彦
- 分 野 :特設:ウクライナ危機
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