世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2305
世界経済評論IMPACT No.2305

後退する世界の地域経済統合

瀬藤澄彦

(帝京大学 元教授)

2021.10.04

 1990年代後半には世界的な潮流になっていた2国間あるいは複数国の地域経済統合形成や地域自由貿易協定(FTA)交渉のブームが過ぎ去ろうとしている。1995年インド生まれの米国の国際貿易論の権威ジャクディーシュ・バグワティ教授は「スパゲッティを止めてラザニアにしなければいけない」と警告していた。幾何級数的に錯綜して増殖されてきた世界貿易協定のネットワーク網はもつれた糸のように取りほどけなくなる。そればかりではない。Brexit,環大西洋貿易・投資連携協定(TTIP)の失敗,離脱した米国が関心を示さない環太平洋パートナーシップ(TPP)協定とRCEP協定の不透明さ,NAFTA(北米自由貿易協定)に代わるUSMCA(米墨加)協定,南米共同市場(MERSCOR)分裂の可能性,ASEAN経済共同体の足踏み,東欧や南欧と緊縮国間のEU内部の不協和音,地中海連合構想の挫折,EU域内地域圏の分離独立機運の加速,遠のくマグレブ統合構想,など自由,無差別,多角というWTOの目標は遠ざかるばかりである。以下,5つのその背景である。

 まず第1にメガ自由貿易圏間の世界規模への形成機運が消えつつある。トランプ政権の反自由貿易主義による米国の環太平洋パートナーシップ協定(TPP)からの脱退,同様にこの間におけるNAFTA消滅とその再編,MERCOSURとEU,とのFTA交渉の停滞,最も成功した地域機構との評価の高かったASEANの統合停滞,など世界の地域経済統合は逆戻りの様相である。これまでグローバリゼーションの波に乗って,欧米日という3極を軸にした大型のメガ自由貿易統合が将来は一緒になれば全世界が一体となった自由貿易体制が完成するというシナリオが語られていた。それは世界レベルの最適化の前段階としての「セカンド・ベスト」論の論理であった。世界は経済の地域主義の横行を大目に見てきた。自由貿易を原則とするGATT第24条はルールに抵触する共通対外関税の関税同盟や途上国同士の貿易を発展のための授権条項認める特恵貿易協定,同じくGATS第5条によるサービスのFTA条文を例外的一時的措置として認めてきたところであった。

 第2は統合加盟国間の格差は縮小傾向にあるが,問題は加盟国内部の地域不均衡が拡がっていることである。経済統合の重要な目的のひとつは統合内部の地域不均衡を解消して経済空間の収斂を実現することであった。世界の地域統合の加盟各国内部では後進地域開発のための構造調整政策にも拘わらずかえって国内の中心地域と周辺の格差は拡大してしまった。総じて現代の世界経済では国際間の格差は縮小し国内の地域間格差が1980年代以降,拡大傾向にある。IMFの最新ブログによれば地域間格差を測定,90/10比を計算。国内上位10%の地域(90パーセンタイル)の1人実質GDPを下位10%の地域の1人実質GDPで除した比率で見るとイタリアの90/10比は約2で,1人あたりGDP比較で豊かなトレント県はシチリアの約2倍。日本の90/10比は1.35と小さい。先進国における地域間の不均衡は1980年代後半からじわじわと拡大し,それ以前の30年間に明らかに縮小していた格差は元に戻ってしまった。地域経済統合への誘因は大きく損なわれた。

 第3は世界貿易機関(WTO)が認めるFTAの数は,2021年9月19日時点で350件を数える。また,WTOのWebに計上されている世界の地域貿易協定とされるFTAは現在304件を数える。一方,ここでカバーされる2国間の貿易協定数は2,686に上る。EPAやFTAを締結するTO加盟164カ国にとっては164x(164−1)/2=13,366件の2国間協定を締結していることになる。膨大な数のこれらの協定を世界的に収斂させることは気が遠くなるほど大変であろう。

 第4は多国籍企業がグローバル化のなかで,業務活動の内部化,外部化,アライアンスの動きを活発化させたことである。世界的な生産工程ネットワークのグローバルな価値連鎖の世界的な拡がりはますます多国籍企業の調整と裁量に大きく依存するようになった。このことは企業論理の市場に対する支配・従属関係の構築,ヒエラルキー上の勝利を意味する。市場の内容が変質したのである。OECDの報告書「グローバル製造価値連鎖と貿易ルール」(Global Manufacturing Value and Trade Rules)でも指摘するように,今日では世界貿易の最も重要な変化はグローバル価値連鎖の拡大である。これはモノ作りが今や国際的な貿易システムに完全に依存するようになったということである。この結果は国際的貿易取引を行う際にはこれまでほとんど関係のなかった各国の規則や制度が広範囲にわたって関わりを持つようになった。電力供給,反競争的慣行,資本規制,ビザ発給制限,など多岐に渡る。TPPやTTIPの交渉はまさにこのような新たな世界貿易の現実を反映するものとなった。長い間,多国間交渉とドーハ・ラウンドに至るまで世界貿易機構(WTO)はこのような現実には考慮を払わなかった。グローバルな貿易ルールは世界貿易の構造的な変化に追いつけず,変容を遂げることができなかった。全世界的にグローバルな多国籍企業の取引が,輸出入,投資,サービス役務の組合せを伴った形態で行われるようになった。ここではグローバルな取引のルールがWTOの枠外で成就されることが一般化した。とりわけ海外直接投資(FDI)については2国間投資条約(BITs)が地域レベルや2国間協定の形で独自のルール,裁定調停機関などを兼ね備えてWTOとは別の新たな流れとして一般化した。WTOのドーハ・ラウンドは重要な交渉の場としての魅力を失い,暗礁に乗り上げたのである。

 第5は経済的論理よりも地域統合は安全保障などの政治的な要因で議論されるようになってきた。日米印豪による「Quad」や米英豪「AUKUS」は「中間層外交」の発案者でもあるサリバン米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)によれば,製造業の貿易に偏重した経済外交からの脱却を目指すものである。中国の音頭による上海協力機構(SCO)はNATOに対抗しうる対米同盟とも言わる。プーチン大統領は米国主導のTPPを批判して,中国のシルクロード一帯一路とロシアのユーラシア経済連合の連携がアジア太平洋の繁栄をもたらすとする。さらにアジア相互協力信頼醸成措置会議(CICA)を2016年プーチン大統領は中国・インド・パキスタンなどの上海協力機構加盟国とユーラシア経済連合を軸に築く「大ユーラシア・パートナーシップ」発表した。政治的で戦略的な地域統合の時代がやってきた。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2305.html)

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