世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
タミー・ダックワーズ米上院議員の物語:ワクチン使節団で訪台した義足の退役中佐ヒロイン
(九州産業大学 名誉教授)
2021.06.21
6月6日朝7時19分(現地時間),機体に「U.S. Air Force」と書いた米空軍15連隊154中隊所属C-17グローブマスターIII軍用長距離の大型輸送機が,台湾台北市内の松山空港に着陸した。訪問者は米国民主党上院議員女性のタミー・ダックワーズ(Tammy Duckworth),共和党上院議員のダン・サリバン(Dan Sullivan)および民主党上院議員のクリス・クーンズ(Chris Coons)など米連邦政府派遣の超党派でつくる上院議員団である。空港で蔡英文総統,吳釗燮外相とAIT(米国在台協会,米国大使館に相当)のウィリアム・クリステンセン代表(大使)などが出迎えた。ダックワーズらは,バイデン政権と連邦政府が75万回のワクチンを台湾に供与すると発表した。
わずか3時間の台湾訪問であったが,国際メディアは自らが車椅子でC-17輸送機から降りた女性上院議員に注目した。ダックワーズはイラク戦争時,両足を失った米軍の英雄で,上院議員にして2名の子供を持つ母親である。また,彼女はアジア系の顔つきのため,その来歴にメディアの関心が集まった。台湾訪問時の記者会見で語ったように,ダックワーズの母親一族は中国共産党統治の広東省潮州からタイに逃れた。そのため,彼女と一族は自由を求めて払われる代価を深く認識し尊重していた。
ダックワーズ議員は1968年にタイの首都バンコクで生まれた中国系タイ人である。その彼女がどうしてアメリカ連邦政府の上院議員になったのか。ストーリーは次の通りだ。ダックワーズの父親(Franklin Duckworth)は,第二次世界大戦とベトナム戦争に参戦した元米軍軍人であった。バンコクでダックワーズの母親と知り合って相思相愛の仲になり結婚した。
ダックワーズの父親は海兵隊から退役後,東南アジアでビジネス機会を求めて各国を巡った。ダックワーズ議員は幼少時にタイ,インドネシア,シンガポール,マレーシアおよびラオスなどの各地に在住した。今でもダックワーズ議員は流暢なタイ語とインドネシア語を話せる。7歳の時,ダックワーズ一家はカンボジアで,母親方の祖父母が当時の中国共産党勢力の魔手から危うく逃れる経験をした。ダックワーズ家は当時のカンボジア共産党の殺戮に遭遇したが,間一髪で最終航空便に搭乗しプノンペンから逃れることができた。ダックワーズ家が東南アジアを転々とする日々は16歳の年に終わりを告げ,ハワイのホノルルに渡った。
ダックワーズ議員はこの時期の記憶から,少数民族と低所得者たちの気持ちが痛いほど分かると話している。幼少時はいつも多くの現地の人々から虐められていたからだ。父親とハワイへの帰国時(母親は当時,タイに滞在)には父親は失業しており,16歳のダックワーズは救済金と観光客に花を売るアルバイトの稼ぎで助けるという最も暗い時期を支えた。
ダックワーズ議員の当時の家計状態は裕福とは言えなかったが勉学を諦めず,ハワイ大学で政治学修士号の学位を獲得した後,ジョージ・ワシントン大学で国際関係学修士号の学位を獲得した。しかし,彼女は最初から政治の道を歩んだのではなかった。ジョージ・ワシントン大学大学院の在学中に,予備役将校訓練課程(ROTC,主に大学に設置された海兵隊などの将校養成教育課程。学費減免と生活費の補助措置あり,条件は卒業後,一定期間の入隊義務)を履修した。同議員によれば,父親と同じ軍人の道を選んだのは,軍隊では自分を「アジアの女の子」として見ず,予備士官として「標的射撃は命中したか」,「リーダーの素質を備えたか」だけを重視すると分かったからだと言う。
ダックワーズ議員が3月に出版した自伝『Every Day is a Gift: A memoir』(Twelve,Signed,2021)で次のとおり述べている。「入隊後約3週間で,基礎訓練で最も困難な試練を経験した。「催涙弾訓練」で,催涙ガスが充満した部屋で涙は垂れ流し呼吸困難の状況下でも弱みを見せず奮起して腕立て伏せを行い,“私が逞しいことを証明した”」。
一女性の逞しい腕立て伏せは,同僚の共感を呼び,終いにすべての同僚が彼女の奮起に倣った。ダックワーズの訓練期間の成績は最高点を得,彼女は国に奉仕するためにノーザンイリノイ大学の博士課程の学業を中断し,ヘリコプター女性パイロットとしてイラク戦争の前線に派遣された。当時,米軍が女性軍人に開放した数少ない職務である。
2004年11月12日,イリノイ国民警備隊のダックワーズ大尉はUH-60ブラックホークヘリコプターの出撃で,地上からの砲撃を受けた。対戦車擲弾(RPG)が彼女のコックピットに命中し,爆発によってダックワーズの両足が吹っ飛んだ。戦友がヘリコプターの残骸から彼女を引っ張り出し,彼女を抱いて現場から離れ一命をとりとめた。
米軍の医療チームは重傷のダックワーズを本土に送り,襲撃された60時間後,彼女はメリーランド州の軍事病院に運ばれた。一週間後,彼女は意識不明状態から覚め,我慢できない痛さを覚えた。彼女の父親が看病に駆け付けた。沖縄戦でパープルハート(名誉戦傷章)勲章を受勲した退役軍人の父親は,丁度この時期に心臓病手術を受けたが,ダックワーズ議員の被弾数週間後,手術の失敗で亡くなった。重傷による犠牲を経て少佐に昇進したダックワーズは,車椅子に座り,アーリントン国立墓地で父親の葬儀に参列した。
ダックワーズ議員は当時,イラク戦争で最重度の戦傷を受けた女性軍人である。彼女は父親の葬儀の翌日には陸軍療養センターに戻ってリハビリテーションを続け,チタン合金の義肢を頼りに再び社会復帰した。重度の障害から前線には戻れない替わりに博士号の学位を獲得し,退役軍人へのケアを重視する政治家の道を歩んだ。
2006年,ダックワーズは初めて連邦政府下院議員に出馬し,僅差で落選した。しかし,後にイリノイ州政府はダックワーズを退役軍人事務部の部長に任命した。続いて2009年,オバマ大統領はダックワーズを退役軍人事務部の次官補に任命した。
ダックワーズは連邦政府のスタッフになったが2011年に辞任し,再び下院議員候選挙に立候補した。念願を叶え,イリノイ州第8選挙区の下院議員に当選した。続いて2016年,イリノイ州の上院議員に当選した。2009年以前のイリノイ州上院議員の代表は第44代アメリカ大統領のオバマであった。事実上,オバマ大統領と彼女は多くの類似点がある。アフリカ系とアジア系の違いはあるが,同じくハワイとインドネシアで幼い時期を過ごし,混血児であり,成長時期に父親が不在で,イリノイ州の地方から中央の政治舞台に立った。ダックワーズは上院議員に当選後,米軍,退役軍人とエスニックの分野に関心を抱いている。米軍を動員し抗議する民衆を鎮圧するトランプ大統領に対し,彼女は厳しい口調を用いて議会で反論した。
バイデン大統領が副大統領候補者を選抜する過程で,ダックワーズの名前がリストに上がっていた。多くの政治評論家はダックワーズを選ぶのが最も無難で,聡明な選択であると見ていた。その理由は民主党左派サンダースの存在によって,バイデンは多くのリスクに直面するだろう。ダックワーズは若く,頭が切れて,立場が穏当で人々に受け入れられる。イラク戦争で両足を失った尊敬される退役中佐である。ダックワーズを登用すれば,彼女の本格的なパープルハートの勲章だけでも共和党のトランプ側候補者は見劣りがする。ダックワーズを選んだ場合,軍人経験者という背景も,バイデンの米軍重視の姿勢を示すことができると言われた。
周知のように,バイデンは最終的にアジア系背景のカマラ・ハリスを副大統領候補者に選んだ。これはダックワーズがアメリカ副大統領に就任するチャンスを僅かの差で逃した出来事であった。メディアの分析によると,ダックワーズは軍人・退役軍人,エスニック(アジア系)の選挙票の獲得に強いが,スイング・ステート(激戦州)からの選出議員でなく,全国の知名度は高くない。これらの要因もバイデンの最終的な副大統領候補者の決定に影響を及ぼしたと言う。
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