世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2115
世界経済評論IMPACT No.2115

開発経済学の理論と実証:サールウォール著『開発経済学』を中心に

朝元照雄

(九州産業大学 名誉教授)

2021.04.12

 当コラムで5冊目の開発経済学刊行書の紹介は,アンソニー・フィリップ・サールウォール著『開発経済学:理論と実証』パルグレイブ・マクミラン(A. P. Thirlwall, Economics of Development:Theory and Evidence, 9Th. Palgrave Macmillan, 2011,計16章,678頁)である。

 1972年にこの書籍の初版『成長と開発:特に発展途上経済』(Growth and Development: with Special Reference to Developing Economics)が出版され,第9版から現在の書名に変更された。2017年に第10版が出版されたが,筆者は第9版しか持っていないため9版により紹介する(当コラムで既に紹介済みの4冊との違いは,このテキストはイギリスの大学の教科書で採用された点が,アメリカの大学で採用された前の4冊と異なっている)

 ウィキペディア(英語版)の記載によると「サールウォールは,ハローウィールドカウンティグラマースクール(1952–59年),リーズ大学(1959–62年)に学んだ。その後,クラーク大学(アメリカ)(1962–63年)でティーチングアシスタント,リーズ大学(1964–66年)に助教として勤めた。1966年に新たにケント大学で教え,1976年に同大学応用経済学の教授に任命された」と書かれている。

 第1章は「開発経済研究」(The Study of Economic Development)である。この章では,第1節 イントロダクション,第2節 開発経済学の主題,第3節 開発の学問的関心,第4節 国際経済の新秩序,第5節 ミレニアム開発目標(MDGs),第6節 グローバリゼーションと世界経済の相互依存,第7節 開発の意義と開発経済学の挑戦,第8節 低開発の持続性,第9節 概要,第10節 ウェブサイト,によって構成される。ここでは第2節と第3節を紹介する。

 第2節の「開発経済学の主題」では,開発経済学と貧困国経済研究における対応の変化を説明し,以下の4つの要因が相互に織込まれていると指摘している。

  • (1)1930年代の世界不況以降と第二次世界大戦以降,経済学者にとって経済成長,発展過程および計画理論と実践が関心テーマとなった。
  • (2)貧困国が自らの遅れを認識してから後,より速い経済開発を追求する意欲が高まった。
  • (3)絶対的貧困に属する現在の人口は過去よりも遥かに多い。この現象はヒューマニズム(人道主義者)の心を動かすようになった。
  • (4)各国は世界経済における相互依存性を認識するようになった。資本主義と共産主義の冷戦,政治と軍事の対峙および世界が富裕国と貧困国に分断される危機に警戒を強めている。近年,グローバル化の進展は貿易と資金の流動へと波及し,各国は世界経済の相互依存性に対する認識を深めている。

 第3節の「開発の学問的関心」では,1970年代以降,開発計画を失敗する国々の例が見られ,押しなべて途上国の経済成長が緩やかになった。それによって1980年代以降になると,開発経済学の学問的地位が疑問視されるようになり,Hirschman(1981),Little(1982),Lai(1983)などが開発経済学の死亡宣言論文を発表するようになった。A. O. ハーシュマンは,開発経済学の誕生は新古典学派経済学の普及および新マルクス主義への否定からであると指摘した。

 ハーシュマンによる開発経済学の死亡宣言の第1の説明は,新古典学派の復活と途上国の現状が異なるという点である。貧困国を「別個の経済学(a separate economics)」の観点から対応していない。別個の経済学の支持者は,自由市場経済の途上国のNIEs(新興工業群)の台湾,韓国,シンガポールと香港の「東アジアの奇跡」の成功例と計画経済を進める社会主義国の失敗例を対象として分ける必要がある。

 ハーシュマンによる開発経済学の死亡宣言の第2の説明は,開発経済学が新古典経済学からだけでなく,物資利益の追求を否定する新マルクス経済学からの糾弾を受けるようになった。そのために,開発経済学が両側からの圧力を受け,政治経済領域の両側から歓迎されていないようである。

 伝統的な開発理論と開発政策の観点から開発経済学を弁護することは困難ではない。アマルティア・セン(Sen, 1983)とサイード・ナクヴィ(Naqvi, 1996)は,余剰労働力,資本累積を工業化に集中して投入することは誤っていないと指摘した。多くの実証研究から見られた高い成長率を成し遂げた国家は,工業部門が農村部門から大量の労働力を吸収したことである。投資と経済成長は高い相関関係を保っている。経済成長が最も速い国家は,GNPのうち工業生産比率の増加が最も速い国である。

 富裕国と貧困国は多くの側面で異なっていると研究者たちは考えている。そのために,異なる概念,モデルと理論で途上国の営為を理解する必要がある。経済学では人の営為は基本的にすべての国で類似していると仮定するが,構造的に途上国と富裕国は依然として異なっている。そのために異なるモデルが必要である。この2つのグループ国の違いは大きく,特に資源の賦存と長期の経済成長に関する課題の相違が非常に大きい。

 開発経済学のパイオニアであるアーサー・ルイスがアメリカ経済学会会長の在任中の講演会で述べたように,開発経済学の中心的任務は成長と発展の速度とリズムに,一つの普遍的な理論のフレームワークを提供することである。氏によると,「経済学者の夢は一つの個別の発展理論を作り出すことであり,……一つの境界線(dividing line)を通じて……西欧の水準を凌駕するまで増し,……あるいは途上国経済の研究では少なくとも一つの優れた理論が必要である……それによって,経済が境界線に到達する」(Lewis, 1984)。これは開発経済学が研究する課題である。性質上,開発経済学は発展過程において,適切に経済学を説明する唯一特化した学科である(Naqvi, 1996)。

 経済学では有名な表現がある。「経済学は経済学者が研究すること」である。この表現を借りれば「開発経済学は開発経済学者が研究すること」である。開発経済学の文献から明らかに,開発経済学者は多くの他の領域の経済学者が行わない領域の研究を行う。彼らは単に新しいモデルを構築しただけでなく,専門分野に応じて既存の理論を修正したのである。専門の理論的発展による貢献は,全体の経済学の領域を豊かにさせ,他の専門課程に応用できることになった。開発経済学者が“発明した”基本的な概念の用語は,低水準均衡の罠,ビッグプッシュ,動的外部性,二重経済モデル,循環的・累積的因果関係,従属理論,成長の極,人口増加と経済成長モデル,農村・都市間の労働力移動モデル,社会的費用便益分析,貧困化の動態,構造的インフレモデル,二重ギャップ・モデル分析,市場の失敗,レント・シーキングなどがあげられる。これら独創的概念の用語は,他の経済領域から借りて来たものではなく,逆に多くの場合他の領域の経済学が開発経済学のツールから借りている。例えば,労働経済学は開発経済学の二重経済モデルや二部門労働市場の概念を使用するようになった。

 プラナブ・バルダン(Bardhan, 1933)によると,「世界の貧困問題は最も重要であり,その研究では多くの分析が正統的学説に対して異議を呈するようになった。開発経済学の啓発によって現存領域の分析方法の可能性と限界を意識し始めた」。

 開発経済学に対して,所期の成果を達成していないという指摘について,どう反論するのか? ハーシュマン(Hirschman, 1981)によると,「途上国はゼンマイバネの玩具のように予期された行動に,様々な開発段階を通過し,……これらの国は利益だけによる情動が見られていない」と指摘した。この所期の成果が実現できない場合,当初計画が現実的でなかったかもしれない。開発経済学の理論と実践の不足とは関係がない。逆に,経済学者の歴史観と歴史分析の不足と関係があるだろうと著者は指摘している。発展過程は長期で緩やかである。ウォルト・ロストウ(Rostow, 1960)の「経済開発段階説」で指摘したように,現在,先進国は200数年を経てから伝統的社会の時代から離陸期を経て,高度大量消費時代の段階に移行したと言う。

 アーサー・ルイス(Lewis, 1984)は,歴史分析が消失した理由を経済史の課程が消えたことによって,この世代の経済学者の歴史的背景の不足を招いたとして慨嘆している。「私たちの専門の視野が狭窄してきた理由は,経済学部の経済史課程の消失によって,私たち世代の経済学者が歴史的背景を失ったためかもしれない。同世代の経済学者は1950年代の開発経済学者と比べると極めて対照的である。事実上,彼らはある程度の歴史的訓練を受け,A・ガーシェンクロンやW. W. ロストウの指導を受け,開発過程の文明史を重視していた」と主張した。

 現在,新しい内生成長理論と大量のデータが得られるようになり,これらのデータは国家間の成長実績の決定要因の有意性と計量経済研究を促進させ,成長と発展過程の学術的関心を蘇らせることになった。ポール・クルーグマン(Krugman, 1992)は1950年代と60年代を「開発理論の繁栄」時代と称した。多くの重要な開発モデルはその時期に構築された。しかし,当時の構築が厳密でなかったためにその後に脚光を浴びなくなった。現在,解析に精通する理論家の尽力によりこれらの視点が再び浮上している。1950年代と60年代に出現した観点は外部経済,収穫逓増,部門間の補完性および連関効果などであるが,新古典学派全盛期に排斥された。クルーグマンはこれらの視点は依然として有効であると指摘した。これらの視点が“新しい”内生成長理論によって再び重視されるようになったとクルーグマンは指摘した。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2115.html)

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