世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1843
世界経済評論IMPACT No.1843

経済学における「プロクルーステース症候群」

西 孝

(杏林大学総合政策学部 教授)

2020.08.10

 ご存知の方も多いと思うが,プロクルーステースは,ギリシア神話に出てくるアッティカの山賊である。彼のアジトには,鉄の寝台があり,通りがかった人々に「休ませてやろう」と声をかけては連れて行き,寝台に寝かせるのである。そして,もしその人の体が寝台からはみ出したら,その部分を切断し,逆に,寝台の長さに足りなかったら,サイズが合うまで,体を引き伸ばす拷問にかけたという。

 さて,どうやら経済学者にとっても,自分たちの持っている「鉄の寝台」は,現実を理解する上で,本人たちが認識する以上の影響力を持ってしまうことを論じてみたい。

 今からほぼ200年前。一方の経済学者たちは,経済が全体的な需要の不足によって,いわゆる不況になる可能性を論じた。しかし他方の経済学者たちは,個々の財については生産のミスマッチが起こり得るにしても,経済全体として総需要と総供給が乖離することは不可能だと論じた。

 前者はマルサス(Thomas Robert Malthus,1766~1834),シスモンディ(J. C. L. Simonde de Sismondi,1773~1842)といった経済学者であり,不況が資本主義経済の本質的病であることを主張している。後者を代表するのは,リカード(David Ricardo,1772~1823),セイ(Jean-Baptiste Say,1767~1832)といった経済学者であり,市場経済の調整メカニズムを強調する立場である。

 しかし,こんな大事な,本質的な問題について,いったい何が経済学者の意見を分けているのだろうか。目の前に停滞した経済があることについては,おそらく同じものを観察していたに違いないにもかかわらず,である。

 この点について,リカードは興味深い指摘をしている。論敵マルサスへの書簡で,「これまでわれわれが議論してきた課題に関する意見の相違の大いなる原因は,君が常に,特定の変化の即時的かつ一時的な効果を思い浮かべるのに対し,私はそれらの即時的かつ一時的な効果は置いておいて,そこから生じる恒久的状態に注意を固定することにある」と述べているのである。

 つまり,リカードの分析枠組みは,今日の言葉で云うところの「比較静学」である。需要曲線と供給曲線の交点で価格と数量が決まり,技術や嗜好の変化は,曲線をシフトさせ,その効果は新しい交点を古い交点と比較することで分析される。お馴染みであろう。

 その際,古い交点から新しい交点への経路については,論じないのが比較静学だ。それにはどれほどの時間を要するのか,その過程で何が起こるか,いや,そもそも新しい交点に無事たどり着く保証があるのか……それを論ずるためには,また別な動学理論モデルを必要とする。マルサスやシスモンディが頭に描いていた現実は,そのようなプロセスだったのかもしれない。

 しかし,比較静学分析を行うリカードにとっては,比較すべきは古い交点と新しい交点であり,それらの存在は分析の前提である。そこを否定されては,そもそも現実を分析することもできない。

 比較静学は,現実を均衡点と「見なす」ことで成立している。そして,与件の変化のもたらす効果を,それによって実現する新しい均衡点との比較によって測るのである。与件の変化に対して,新しい均衡点がそもそも実現するか否か,それにどれだけの時間を要するかは,事実上問題にしない。そのためにはまた別の理論モデルを構成しなければならない。残念ながらマルサスやシスモンディも,それに十分成功したとは言えないのかもしれない。

 結果的に勝利したのは,リカードの側であった。しかし,現実を均衡点と「見なす」均衡分析は,いつしか「現実には均衡を実現するメカニズムがある」という信仰に形を変えた。古い均衡点と新しい均衡点を比較する分析枠組みは,その存在と実現を現実の経済過程そのものと見なすようになった。そして,その間に生じるかもしれないさまざまな問題は,「即自的・一時的効果」として,切り捨てられたのである。この時,現実経済は,鉄のベッドの長さに伸び縮みさせられたのだが,この点については,近々,もっと長い論文で論ずるつもりである。

 ちなみに,プロクルーステースの寝台にぴったりのサイズの人間がいなかったのは,実は,寝台の長さが調節可能だったからだという。なんと,プロクルーステースは,遠くから旅人の背丈を目測して,あらかじめ寝台を伸ばしたり縮めたりしていたのだそうな。

 なんだ,やればできるんじゃないか! そう,私はこの意味で,経済学者がプロクルーステースになることを,実は推奨したいのである。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1843.html)

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