世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
マクロ経済学の空白期間
(杏林大学総合政策学部 教授)
2020.03.23
経済学者のアントアン・マーフィー(Antoin E. Murphy)は,その著書(The Genesis of Macroeconomics, Oxford University Press, 2009)の中で,マクロ経済学には19世紀を通じて空白期間があったことを指摘している。
なるほど,国民所得統計をはじめ,マクロ経済分析の基礎となる集計量は,クズネッツ(Simon Kuznets)によって整備されたし,その分析的枠組は,言うまでもなくケインズ(John Maynard Keynes)によって打ち立てられた。そもそも「マクロ経済学(macroeconomics)」という言葉自体が,フリッシュ(Ragnar Frisch)によるものとされている。いずれも1930年代の話だ。
しかしマーフィーによれば,マクロ経済学には偉大な先駆者たちがおり,それがソーントン(Henry Thornton)の1802年の著作(Paper Credit of Great Britain)以降,100年以上にわたって休眠期間を迎えたというのである。ここでいう休眠期間とは,「一般的供給過剰論争」におけるマルサス(Thomas Robert Malthus)や,貨幣に関する「地金論争」といったわずかな例外を除いて,先駆者たちの革新的な理論的展開に匹敵するような貢献が,マクロ経済学の分野ではついぞ現れなかったということである。
これに対して,いや,J・S・ミル(John Stuart Mill)やマーシャル(Alfred Marshall),マルクス(Karl Marx)だって,経済社会の全体像を問題にしていたという意味で,マクロ的な視点を持っていたではないか……といった議論は,問題を混乱させるのみである。
重要なのは,ここでの議論が,まさに「マクロ経済学とは何か」という本質的な問題を提起している,ということである。それは単に全体的(巨視的)視点を持つというだけでなく,「経済全体の活動水準の変動」を分析するものであることが思い起こされるべきである。休眠したのは,まさにその議論だからだ。そして,そもそも経済全体の活動水準が短期的に変動し得るとするためには,「経済は不況になり得る」ことを認める必要があるのである。
資源,人口,資本,技術等によって規定される経済全体の潜在的生産能力を思い浮かべてみよう。経済はしばしば,その潜在的生産能力をすべて利用することができないという病に陥る。すなわち非自発的失業や遊休設備を伴った不況の状態である。そういうことが生じ得ることを認めなければ,そもそも全体的活動水準の変動という考えは出てこない。せいぜいあり得るとすれば,潜在的生産能力それ自体の拡大,つまり,経済成長の議論である。
マクロ経済学の空白期間とは,まさに経済理論の歴史において,そのような意味での経済の全体的活動水準の変動に関する議論,すなわち好不況のメカニズムに関する議論が100年以上にわたって停滞したことを意味しているのである。
実は,私には犯人の目星がついている。それは「セイの法則」だ。「供給はそれ自らの需要を創出する」というこの命題が,本当のところ何を意味しているかについては十分な合意がなく,ましてこの場でそれを論ずることはできない。しかし,実際問題として,それが何を意味するかに関わらず,「供給はそれ自らの需要を創出する」という命題は,そのままキャッチフレーズのように19世紀の正統派経済学を占拠した。そしてその帰結として,「経済において,一般的な供給過剰(=不況)というものは生じ得ない」ことになったのである。
数少ない例外として,一般的供給過剰の可能性を主張したマルサスは,「セイの法則」で武装するリカード(David Ricardo)の快刀乱麻の議論の前にまったく歯が立たなかった。そして,経済学はやがて需給均衡(それもまた「セイの法則」の血統である)を基礎とする新古典派経済学に引き継がれ,そこでは資源(生産キャパシティ)の完全利用はもはや前提であり,経済学はその効率的利用を議論する学問となったのである。いわば好不況の概念自体が,その適切な形式において存在する余地がなかったわけだ。
100年を越える眠りが,ようやくケインズの革新的業績によって覚まされたのもつかの間,その50年後には,そのケインズの経済学もまた新古典派経済学の中に取り込まれてしまった。そこでの議論が果たして,経済の全体的活動水準の変動という意味でのマクロ経済学であるのか,私には確信がない。
ちなみにこのコラムには,タイトルの候補がもう一つあった。それは「セイ法則の呪い」である。経済誌のコラムらしからぬかと思いとどまったのだが,実は,そんなに悪くなかったと密かに思っている。
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