世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1024

ヒルビリー・エレジーとアメリカン・ドリームがもたらす未来

古川純子

(聖心女子大学 教授)

2018.03.05

 白人労働者階級出身のJ.D.Vanceによる『ヒルビリー・エレジー』(2016,邦訳2017)は,よく書けた自叙伝だ。同書は,トランプ政権の支持層を良く描いているとされる。アメリカ中西部を舞台にしたけだるい米文学を思い起こさせるが,実話である。映画『ムーンライト』に描かれるような黒人社会でもなく,ヒスパニック社会でもなく,白人労働者階級とその子孫たちが,文化層としてこれほどの広範な地域に広がりをもってアメリカ社会の基底を形成していることを克明に描き,明るみに出したという点で類書をみない。

 ヒルビリーとは田舎者を意味し,白人とはいえWASPとは異なる階層を指す用語である。奴隷制時代には日雇い労働者,物納小作人,次いで炭鉱労働者,近年では機械工や工場労働者として生計を立てた,大学を卒業していない労働者階級として一生を過ごす人々である。ラストベルトの例に漏れず,安定した賃金を提供してくれたアームコが衰退したあとのオハイオで育った著者は,ティーンエージャーにして異性問題に絡まりながら人生が混乱の中に堕ちていった母の,男性遍歴と麻薬漬けの生活の中をなんとか生きのびる。その著者に無条件の愛情と安定の基盤を提供したのは,腹に据えかねれば銃をぶっ放し,その母を育てた時期にはアルコール依存症だった夫と汚い言葉でののしり合いの喧嘩をしていた祖母と,ある時からアルコールをぴたりと止めた祖父であった。

 愛情飢餓の著者は,祖父母の愛に守られて人生の転落から救われる。ところがオハイオ州立大学に進学できるチャンスが到来しても,著者のマインドはより上の世界に行く恐怖に硬直して前に進めない。そこで,まずは4年間海兵隊に入隊し,ブートキャンプで18キロ体重を落とし,筋肉をつけ,ジャンクフード以外の食べ物を食し,規則正しい生活とベッドメイクを学び,はじめて車を買うならいきなりBMWを買うのではなく,ローンを組むなら相見積りを取るのだという,自分の成育環境では知りえなかった社会の渡り方を教えてもらうことになる。その後,オハイオ州立大学を卒業し,戦略的に階段を登る方法を学んだ彼は,低所得出身者用の奨学金でイエール大学ロースクールを卒業した。低所得階層と,イエール大学の約束された階層では,仕事の探し方も違う。イエール大学ロースクールでは,「社会関係資本」から引き出される情報に乗って面接ディナーを食べる中で法曹界の職は内定する。著者は,良家出身で美人の大学院同級生と結婚し,適確なサポートと愛情にも恵まれて弁護士になった。白人労働者階級のアメリカン・ドリームを果たしたのである。

 例外的なほど眩いこの成功物語の背後に存在しているのは,今日もそこから這い出ることができない無数の低所得階層である。60年代,70年代,優秀な白人工場労働者だった人々の末裔は,いまその無力感のマインド・セットを切り替えられずにいる。家庭の中で起きている愛情不足,心の不安定と混乱に,麻薬と銃と異性問題が拍車をかける。マインド・セットを切り替えるだけの,そしてこの退廃を逆転させるだけの,十分な社会関係資本が足りないのである。

 均等に与えられる機会を活かし,努力をすれば報われる。成功するのは本人の力量である。それがアメリカン・ドリ―ムであり,アメリカの興隆の要因であった。しかしいま,この概念がアメリカの退廃の原因であるという逆説もまた真ではなかろうか。

 ノーム・チョムスキーは,アメリカは内部から崩壊しつつあると言う。その原因は,富者を含む誰もが,自分のアメリカン・ドリームを追求する姿勢に根差すと見ることもできる。骨抜きにされたオバマケアでは,保険加入者に突き付けられる選択として,「癌治療薬なら自費負担,安楽死用の薬なら保険適用ですが,どちらにされますか」などと言われるケースがある。学資ローンを借りて大学に進学しようとする中流の若者たちは,固定金利で借り入れていても利率を突然に変更され,条件受け入れか全学返済かを迫られる。失業や減俸で返済が滞れば,たとえ自己破産をしても学資ローンの負債は免除されないよう法律が変えられている。銀行も保険会社も製薬会社もそれぞれに,資本の論理に従った自己実現に励んだ結果であろう。システム論から言えば,富者の資本はさらに富者に戻るフィードバック・ループが生じることは不思議ではない。それによってアメリカ社会は,上位1%が93%の所得を得るところまで進んできてしまった。利潤のためには同胞の死を何とも思わないしくみを作り上げるまでに,人間性の崩壊を伴う深刻な制度的行き詰まりが起きている。1930年代に確立されたアメリカの労働市場支援プログラムには改良の余地が十分にあるとも言われるが,社会がその転換を鮮やかに果たすことを祈るばかりである。

  • “Give me your tired, your poor,
  • Your huddled masses yearning to breathe free,
  • The wretched refuse of your teeming shore.
  • Send these, the homeless, tempest-tost to me,
  • I lift my lamp beside the golden door!"
  • (by Emma Lazarus, 1883)
  •  
  • 我に与えたまえ。
  • 疲れ,貧しく,自由を呼吸することを切望する雑多な群衆を,
  • ごった返す岸辺にたどり着いた哀れな人々を。
  • 我に送りたまえ。
  • 戻る家もなく,逆境の嵐に翻弄された人々を。
  • 私は,黄金の扉の傍らで,灯を高く掲げて照らす。
  • ここが希望の地なのだと。

 これは,ニューヨーク・エリス島にある自由の女神像の台座に刻まれたラザルスの詩の一節である(訳文は原文に忠実であろうとした意訳である)。理想の国を求めて海を渡ったプロテスタントの祖先たちと同様に,貧しさと人生の困難に満ちた人々がいまここに居る。逃げていける約束の地はもはや無い。アメリカという20世紀のリーダー国が,深部から退廃していくのを見ることはとても哀しい。そしてこれは,必ずしも彼岸の物語ではない。

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