世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
米中対立の震源地は株式市場にもある:HFCAAが示す未来
(立教大学経済研究所・国際貿易投資研究所 客員研究員)
2026.01.19
前稿(世界経済評論Impact No.4154)は,国際分散投資の機関投資家が参照するMSCI指数を用いて,香港市場が本土市場と世界市場の間でどのような調整機能を果たしているのかを検討した。米国預託証券(ADR)を利用した中国上場企業の研究であり,香港が本土市場への「窓口」から,制度と市場が交差する調整ノードへと変化しつつある姿を描いた。
中国は1971年,国連に加盟し,米国の対中関与政策はここから年数をかけて本格化した。WTO加盟前後には,米国企業が中国市場に参入するメリットが強調され,当時のポールソン財務長官は「中国訪問の回数」を競うセールスマンのような存在でもあった。しかし,中国の経済大国化が軍事大国化につながるとの懸念はオバマ政権期からワシントンDCで高まり,米中関係は協調から競争へ,そして現在では制度的対立の段階へと移行している。
こうした大きな地政学的転換のなかで,米国市場に上場する中国企業は,米中対立の「最前線」に立たされている。とりわけ2020年に制定された「HFCAA(Holding Foreign Companies Accountable Act)」は,監査資料へのアクセスを義務づけ,3年連続で監査が確認できない場合には上場廃止を可能とする制度である。米国の監査制度と中国の情報管理制度の不整合が背景にあり,単なる会計基準の問題ではなく,国家安全保障,データ主権,資本市場の統治といった制度的摩擦の結節点に位置づけられる。すなわちHFCAAは,企業の会計透明性をめぐる技術的規制を超え,国家間の制度と市場原理が正面から衝突する場を,株式市場という形で可視化した制度である。
この意味でHFCAAは,米中対立が「外交交渉」や「安全保障政策」にとどまらず,投資判断や企業価値評価といった日常的な市場行動のレベルにまで浸透していることを示す象徴的な制度である。この点は,米中対立が「まだ始まったばかり」であるという筆者の見方を,制度の側面から裏づけるものといえよう。本稿では,このHFCAA関連の主要な発表が中国ADRの株価にどのような影響を与えたのかを,イベントスタディ(注1)により定量的に検証する。
HFCAA関連イベントスタディ対象は,NYSEおよびNASDAQに上場する中国ADR企業であり,Alibaba,JD.com,Baidu などのICT系企業を含む。一方で,中国工商銀行,ペトロチャイナ,チャイナテレコムといった大手国有企業は,本研究のサンプルには含まれない。したがって,分析対象はすべて民間企業で構成されているものとみなしている。米国最大手のBNYのADRディレクトリからNYSE/NASDAQ上場銘柄を対象にした。
イベントスタディでは,日次株価データを用い,標準的な市場モデル(market model)に基づく異常収益(AR)(注2)および累積異常収益(CAR)(注3)を推定した。推定期間は120営業日,イベントウィンドウ(注4)は−1〜+1日,−3〜+3日,−5〜+5日を採用している。複数のHFCAA関連イベントを対象とすることで,規制のどの段階で市場が最も強く反応したのかを比較可能にした。
結果として,HFCAA関連の発表日において,中国ADRは統計的に明確なマイナスの反応を示した。特に,SECによる実施規則の発表やPCAOBによる監査アクセス不能国の指定といった「制度的確定性が高まる局面」で,CARは大きく低下した。これは,投資家がHFCAAを「実際に発動される可能性の高い規制」として認識し,上場廃止リスクやコンプライアンス負担を株価に織り込んだことを示唆する。企業属性による反応の違いも明確である。本研究のサンプルはすべて民間企業であるが,その中でもICT系企業ではマイナスのCARが大きく,規制リスクへの脆弱性が高い。データ管理,越境サービス,国際的な事業展開に依存する企業ほど,米中間の制度的摩擦の影響を受けやすいことが示唆される。
HFCAAが示すのは,米中対立の震源地が軍事や外交だけではなく,むしろ株式市場という「資本のインフラ」にあるという事実である。制度的摩擦は企業価値に直接影響し,投資家の期待形成を通じて市場全体に波及する。米中関係の緊張が続く限り,規制リスクは国際金融市場の構造を左右する重要な要因であり続けるだろう。
今後の課題としては,HFCAA関連のイベントスタディを,上海・香港・東南アジア市場の時系列分析や資本流入データと統合し,制度的リスクが国際金融システム全体にどのように波及するのかをより包括的に捉えることである。制度と市場の相互作用を動態的に把握する視点は,今後の国際金融研究において重要性を一層高めていくと考えられる。
本研究の枠外にあるが,国有企業は米国上場ICT系企業に比較すると,市場で売買される株式が限られる。中央政府,地方政府,非上場の親会社の国有企業,政府系ファンドなどの名義でIPO後も事実上,所有されるケースが多い。こうした企業において,形式的な改革から実質的な改革への移行をどのように評価するのかという点については,今後の課題が少なくない。
[注]
- (1)イベントスタディとは,特定の出来事が株価に与える影響を観察する研究手法。
- (2)異常収益(AR)とは,普通なら起きない“特別な”株価の動きである。
- (3)累積異常収益(CAR)とは,特別な動きが数日で合計どれだけ起きたか。ARを合算する。
- (4)出来事の前後で株価を見る期間のこと。どの期間に設定するかによって結果は変わる。イベントスタディの肝である
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