世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
米ドル固定の香港の中国株式市場へ「柔統合」
(立教大学経済研究所・国際貿易投資研究所 客員研究員)
2026.01.12
中国返還前の香港は「アジアの金融センター」,そして「本土市場への窓口」(オフショア)として位置づけられてきた。海外投資家にとっては,本土市場にアクセスするための代替的プラットフォームであり,香港市場の動きは中国市場全体の代理変数として解釈されることも多かった。2014年11月に導入された滬港通(上海・香港ストック・コネクト)は,この関係を制度的に再編した重要な転換点である。本稿では,滬港通前後を分けたVAR分析(注1)により,香港の株式市場機能の変化を再検討する。
分析には,機関投資家の代表的な投資対象であるMSCI World,MSCI Emerging Markets,MSCI ACWI,MSCI Hong Kongの月次株価指数を用い,対数差分リターンを算出した。VARモデルはラグ1を採用している。全期間推定に加え,滬港通導入前の10年間(~2014年10月)と導入後の10年間(2014年11月~)のサブサンプル分析を行い,グローバル市場および新興国市場から香港市場へのショック伝播の変化に焦点を当てた。
全期間(20年間)の結果では,世界市場や新興国市場から香港市場へのインパルス応答(注2)は限定的であり,香港が外部ショック(注3)を一貫して増幅させる役割を果たしているとは言い難い。一方,滬港通導入後のサブサンプルでは,香港市場自身のラグ項が有意に負となり,短期的な自己調整メカニズムの強化が確認された。これは,香港市場が単なる外生的な受け皿ではなく,ショックを吸収し調整する機能を備えつつあることを示唆する。
インパルス応答関数では,滬港通前には世界市場ショックに対する香港の反応は概して平坦であったのに対し,導入後には短期的な反応の形状が変化し,調整速度が高まっている。分散分解(注4)においても,香港リターンの変動に占める外部要因の寄与は限定的であり,香港が本土市場とグローバル市場の単純な「中継点」ではなく,独自の役割を持つ結節点(ノード)として機能し始めている可能性が示される。
これらの結果は,先行研究が示してきた「市場統合の進展」という理解を補完する。既存研究は,本土・香港・米国市場間の共変動やスピルオーバーの増大を示してきたが,本稿の結果は,統合の進展が必ずしも香港の従属化を意味しないことを示唆する。むしろ滬港通後の香港は,グローバル・ショックを本土に一方向的に伝達する通路ではなく,情報と資本の流れを調整・緩和する中間的ハブとして再編されつつある。
さらに重要なのは,香港が米ドルに固定された通貨制度(香港ドル・ペッグ制)を維持している点である。香港は独自の金融政策を持たず,米国の金融政策動向を事実上受け入れる。このため,香港市場は中国本土市場と制度的につながりながらも,金融条件の面ではグローバル(特に米国)と強く連動するという二重の性格を持つ。本稿で確認された「外部ショックの増幅ではなく,短期的な自己調整の強化」は,こうした通貨制度の下で形成された市場構造と整合的である。
すなわち,滬港通以降の香港は,本土市場の価格変動を単純に反映する代理市場ではなく,ドル建て金融条件と人民元建て市場の間で調整を行う緩衝装置としての役割を強めている可能性がある。世界市場からのショックは,即座に本土へ一方向的に伝達されるのではなく,香港市場内部で吸収・再編された上で影響が現れる。この点で香港は,「通過点」ではなく,制度と市場の相互作用が凝縮された調整ノードとして再定義されるべきであろう。
今後は,深港通を含む他の制度改革や資本規制の変化とあわせて,この役割変化がどの程度持続的であるのかを検証する必要がある。香港の位置づけを静的に捉えるのではなく,制度と市場の相互作用の中で動態的に把握することが,研究にとって重要な課題となろう。
最後に,返還50年が経過しても「香港の独自の通貨・株式市場」は残るという私の「仮説」を補完した。
[注]
- (1)VAR(ベクトル自己回帰)分析は,複数の市場が時間を通じて相互に影響し合う関係を同時に推定する方法である。本稿では,世界株・新興国株・ACWI・香港株の月次リターンが翌月以降にどう影響し合うかを分析する。
- (2)インパルス応答は,ある市場に一度だけ想定外の変化(ショック)が起きた場合,他の市場がその後数か月どのように反応するかを示す。
- (3)本論のショックとは,特定のニュースや出来事を指すものではなく,通常の動きでは説明できない統計的な変化を指す。
- (4)分散分解は,市場の変動がどの市場のショックによってどの程度説明されるかを割合で示す指標である。
[参考文献]
- Bian, X., Wang, Y., & Liu, J. (2023). Cross-border capital flows and international stock market spillovers: Evidence from China and Hong Kong. Journal of International Financial Markets, Institutions & Money, 86.
- Li, X., & Chen, Y. (2021).Market co-movement among Mainland China, Hong Kong, and the United States. Journal of International Financial Markets, Institutions & Money, 72.
- Shan, Y., & Chen, Z. (2025).Market liberalization, mispricing correction, and financial integration: Evidence from China’s Stock Connect programs. Emerging Markets Review, 62, 101109.
- Zhong, Q. (2024).Capital market liberalization and corporate environmental performance: Evidence from the Shanghai–Hong Kong Stock Connect. PLOS ONE, 19(11).
- Zhu, C. (2025).Asymmetric spillover effects between Shanghai–Hong Kong Stock Connect capital flows and stock market volatility: A dynamic analysis based on investor sentiment. SAGE Open, 15(3).
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