世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
知財敗戦・伊藤レポート以後のコーポレート・ガバナンス
(フリーランス・エコノミスト/元静岡県立大学 大学院)
2025.03.10
「ビジネスと人権」とは,国連のビジネスと人権に関する指導原則の起草過程を通じ登場した用語で,現在では,原材料調達から廃棄・リサイクル・再資源化までの取引先を含めた企業の事業活動とステークホルダー(労働者,消費者,地域住民)との関係における人権課題を包括的に捉える視点を指している。
この「ビジネスと人権」の指導原則は,国家の義務と企業の責任を明らかにするもので,特に,本稿における「企業の責任」に関するポイントは,①企業の社会的責任として遵守が求められる国際的に認められた人権(世界人権宣言,自由権規約,社会権規約,中核的労働基準を成すILO条約等)で,状況に応じて当事者グループの人権(ジャニーズ問題であれば子供の権利条約等)に関する追加的な基準を考える必要がある点,②企業が関わるステークホルダーの人権尊重はもちろん,ビジネスの行為体による人権侵害も責任の対象となる点,③企業の責任を果たすためには人権方針,人権デューディリジェンス,是正・救済の実施が不可欠である点である。尚,人権デューディリジェンスとは,企業活動における人権への負の影響を評価し,予防・軽減・是正するプロセスと,人権影響評価の実施,影響評価の企業体制・決定への統合,取り組みの追跡評価,情報開示を指している。
さて,なぜ企業は自らの事業活動を越えて,取引先での人権尊重を確保するところまで,責任を求められているのだろうか。国連における「ビジネスと人権」議論は,脱植民地化を経た1970年代から継続されてきたが,その焦点は徐々に重層化してきた。当初は多国籍企業の現地子会社等による途上国での人権侵害や環境破壊について,その親会社に対して,法的責任を越えて,責任をいかに問うかであったが,90年代の企業の社会的責任(CSR)は,資本関係のない取引先での人権侵害を責任をも対象に加えた。本稿では,コーポレート・ガバナンスのあり方に影響を与えうる内外の経済情勢や社会情勢の変化に関して,以下の3つの事実を指摘する。
1つ目は,戦後日本企業が辿った軌跡として,戦後の特許で勝利した30年と,平成における知財敗北に転落した30年が挙げられる。現在も,日本は知財戦略で他国に後れを取っている。
欧米企業は1990年代以降,アジア企業と市場で戦うことを避け,知財を使った共存共栄の仕組み「エコシステム」を築く戦略に転換した。アジア企業をライバルとみなすのではなく,共存共栄のための提携先とすることで,自らの生き残りと利益につなげていった。そのために編み出したのが,「攻めのオープンな知財戦略」であった。
一方,1990年代から2000年代の日本メーカー,特に,電機大手は,ものづくりで欧米企業に勝利した成功体験を忘れられず,成長してきた韓国,台湾,中国のメーカーを直接のライバルとみなし,コスト削減や事業規模をめぐってアジアの企業と競い始めた。
その結果として起きた「崩れた勝利の方程式」は,日本メーカーのクロスライセンス戦略(特許やノウハウなど知財の相互使用を契約に盛り込む)がアジア通貨安で敗北し,対抗策として,コスト削減をするも人材流出が加速する結果となった。
2つ目は,我が国の会社法では,コーポレート・ガバナンス向上のため,企業の業績及び経営のコンプライアンス強化のための様々な改正が行われてきた。
2021年6月にコーポレート・ガバナンス・コード(CGコード)の改訂が行われたこと等も踏まえ,経済産業省は2021年11月よりコーポレート・ガバナンス・システム研究会の第3期を開催し,2022年6月まで全6回にわたり,コーポレート・ガバナンス・システムに関する検討を行ってきた。経済産業省は,上記研究会の議論を踏まえ,2022年7月19日,「コーポレート・ガバナンス・システムに関する実務指針(CGSガイドライン)を改訂し,公表した。
CGSガイドラインでは,実効的なコーポレート・ガバナンスの実現に資する主要な原則を,企業が実践するに当たり,CGコードと整合性を保ち,かつ,これを補完することで「稼ぐ力」を強化するために有効と考えられる具体的な行動を取りまとめた。
CGSガイドラインにおける経営陣のリーダーシップ強化の方法の1つである,「経営戦略等の策定・実行」では,企業価値向上に向けた取り組みを実施するにあたって,「経営戦略・経営計画」の策定が重要な役割を果たした。CGSガイドラインは,「上場企業の企業価値は資本市場において評価されるという基本に意識を向け,資本効率性の向上や新しい事業開拓を目指す戦略が必要になる」とした上で,内部留保,無形資産,事業ポートフォリオ等において「欠けがち」な視点・観点について検討することが重要であると提言している。
これら,関連法を受け,現代のコーポレート・ガバナンスにおいて会社法上求められる内部監査の役割(実務)は,取締役の職務執行の監査(監査意見の形成)であった。
取締役会の役割・責務は以下の3点である。
- (1)戦略的な方向づけ
- (2)適切なリスクテイク環境整備
- (3)経営陣・取締役に対する実効性の高い監督
会社法が制定される以前,ガバナンスの1つの要であった監査役は,日本経済の全体の流れなどはおよそ考える必要はなかった。しかしながら,令和の現在は,状況が一変している。社外取締役,社外監査役は,自らが日本経済の大きな流れの中で,重要な役割を担っていることを認識しその自覚を持っていないと,職責を十分に果たすことはできない。
3つ目は,外の経済情勢の変化は,コスト削減による持続的低収益構造から,中長期的な視点による資金の循環を生み出し,インベストメント・チェーンの活性化の流れを生み出した。
上述のように,コーポレート・ガバナンスにおいては,さまざまな改正が行われてきたが,知財戦略の不備によって日本企業が敗れ去った平成の「敗北の30年間」は,その背景に日本企業の構造的な「持続的低収益」にあった。そこからの脱却のための提言をしているのが,「伊藤レポート」(2014年,経済産業省)であった。
「伊藤レポート」では,インベストメント・チェーンの活性化なくして日本経済がこれまでの「持続的低収益」から脱却できないとし,具体的に以下のようにまとめられている。すなわち,上場会社の経営は,顧客市場と資本市場という2つの主たる市場に直面しており,日本企業の製品・サービスの品質の高さは国際的にも顧客市場からは高い評価を得ていた。しかし,資本市場に眼を転じると,企業の持続的な成長をもたらす長期的な視野に立った革新的な経営判断を促すような資金の流れが形成されていないため,日本企業の競争力の源泉ともいえるイノベーションに向けた投資が行われていない状況に至っていた。
こうした問題意識から,インベストメント・チェーンの構成要素に対し,CGコードや,日本版スチュワードシップ・コードなどによって働きかけ,中長期的な視点による資金の循環を生み出してインベストメント・チェーンの活性化をもたらし,そうした循環の中で,個々の企業の企業価値の向上を促し,長期的な視点で見ればそうした企業価値の向上が配当や株価という形で株主に還元され,その結果として,高い投資リターンが産み出され,機関投資家への投資リターンが増大し,よって,機関投資家への資金の出し手である国民の懐が厚くなり,豊かな経済社会が形成されるとの構想が描かれるに至った。
まとめると,本稿では,内外の経済情勢や社会情勢の変化に関して,企業に求められるガバナンスのあり方(目的)として,戦後の知財敗戦を受けて構造的な持続的低成長を脱するために,日本の上場企業はインベストメント・チェーンの活性化により,攻めの経営として資本効率性の向上や新しい事業開拓を目指す戦略の必要性が生じていたことを確認した。
*本稿テーマに関連する詳細な論考は,「世界経済評論インパクトプラス」に近日中にアップされます。
[参考文献]
- (1).経済産業省(2014), 「持続的成長への競争力とインセンティブ〜企業と投資家の望ましい関係構築〜」プロジェクト(伊藤レポート)最終報告書, 経済産業省.
- (2).菅原絵美(2024), 「ジャニーズ問題を「ビジネスと人権」の視点から考える」, 『月刊ヒューマンライツ』, No. 431. 一般社団法人 部落解放・人権研究所, 2024年2月10日発行.
- (3).須藤修監修, 田中和明編(2018),『コーポレート・ガバナンスにおける社外取締役 社外監査役の役割と実務』, 日本加除出版.
- (4).日本弁護士連合会国際人権問題委員会(2022), 『ビジネスと人権』, 現代人文社.
- (5).林力一, 渋谷高弘(2024),『経営コンサルが知らない 最強の知財経営』, 日経BP 日本経済新聞出版.
- (6).保坂泰貴, 山口敦子, 栗原涼介(2022),「「コーポレート・ガバナンス・システムに関する実務指針(CGSガイドライン)」の改訂の解説」『月刊監査研究』, Vol. 48, No.10, 2022., 一般財団法人 日本内部監査協会.
- (7).星野雄滋, 矢澤浩, 松林和彦, 三村健司(2021), 『新版 役員1年目の教科書』, ロギカ書房.
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