世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3508
世界経済評論IMPACT No.3508

共和党副大統領候補者J・D・バンスの物語:ラストベルトから爬い上がった上院議員

朝元照雄

(九州産業大学 名誉教授)

2024.08.05

共和党副大統領候補者J・D・バンスの選出

 7月17日,米・ミルウォーキーで開催された共和党大会で,トランプ大統領候補から副大統領候補に指名されたのはJ.D.ヴァンス(報道に合わせて“バンス”と記載)上院議員(39歳)であった。バンスは2022年,上院議員に当選したばかりの“新米”である。日本の場合,首相や大臣に就任するのは,当選回数の多いベテラン議員が通例であり,日米政界における人材抜擢の考え方の違いが見て取れる。

 バンスは錆びついた工業地帯「ラストベルト」の一角を占める中西部オハイオ州出身で,彼が31歳の2016年に著した『ヒルビリー・エレジー(Hillbilly Elegy)』で注目を集めた。同著は,繁栄から取り残された「ラストベルト」に住む父母,母方の祖父母の生涯と米国の底辺に生きる白人たちを描いた自叙伝である。

 スウェーデン人でノーベル経済賞受賞者のグンナー・ミュルダールは,自著『アメリカ・ジレンマ(An American Dilemma)』で,米国の黒人と白人との格差を描いた。その中では白人は常に優越的な存在であるが,バンスが描いたのは底辺に生きる白人と,エリート白人との驚くべき格差の実態である。この書籍は国内外のメディアで大きく取り上げられ,ニューヨーク・タイムズのベストセラーランキング1位に選出された。タイムズ,エコノミスト,ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)などメディアは,トランプを大統領の座に押し上げた熱狂的な支持基盤である「米国の底辺に生きる白人」の謎を解くのがバンスの『ヒルビリー・エレジー』であると評する。同著は,映画「アポロ13」(1995年),「ビューティフル・マインド」(2001年,アカデミー賞監督賞受賞),「ダ・ヴィンチ・コード」(2006年)などで監督を務めたロン・ハワードによって同名のドラマ映画「ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌」(2020年)として映像化された。ビル・ゲイツは「これは偉大な著作だ。バンスが論じた重要な課題が米国社会に与えた影響は,彼が執筆時に想像したものを遥かに超えた」と述べた。

『ヒルビリー・エレジー』の世界

 バンスは9歳~16歳の間に母親と7回も引越をした。母は離婚と再婚を繰り返し,家庭では口喧嘩が絶えず,バンスの学業も芳しくなくなった。幸い母方の祖父母の寵愛を受けたことで,彼は退学することを免れたが,母は4人目の再婚相手宅で大麻を吸うようになって,世の中に対する不満が一層高めていった。バンス自身は高卒後,海兵隊に志願し,肉体的にも精神的にも大きく変化した。以前は肥満体で,1マイル(1609メートル)を走ることもできなかったが,4年間の厳しいトレーニングを経て,僅か19分間で3マイルを走ることができるようになった。軍隊の厳しい訓練と節制によって,バンスの性格は積極的になり,2005年には海兵隊員としてイラクに派遣された。23歳で海兵隊を除隊後,アルバイトをしながらオハイオ州立大学を卒業。その後,イエール大学ロースクールに進学した。イエール大学の3年間ではクラスメイトで,人生のパートナーとなるインド系女性と出会った。卒業後は法律事務所の弁護士,ベンチャー投資企業の代表,ベストセラー作家を経て,2022年に上院議員に当選した。

 この半世紀にわたり,米国の底辺に生きる白人たちは,社会の地位を失い,エリート白人から無視され,貧困や暴力,麻薬などの夢魔に晒され続けた。彼らは「アメリカンドリーム」から遠ざかり,上流社会との格差はますます大きくなり,現状に強い不満を抱きながら生きている。『ヒルビリー・エレジー』の「ヒルビリー」とは,「田舎者」の意味であり,「エレジー」とは,悲歌,哀歌,挽歌だ。米国における白人は,歴史的には上流階級であったが,工業地帯においては,海外の安価な製品に押され,経済状態が悪化し,貧困に転落するようになった。彼らの支持政党も民主党から共和党へと変化するようになった。

 母方の祖父母は貧しいアパラチア山脈地域から工業化されたオハイオ州へ移住したが,その後,中産階級であった工場労働者は,経済状況の悪化から未来を悲観する社会の底辺に転落する。彼らは全力で頑張っても貧困のサイクルから離脱することが難しい「呪われたグループ」と化していった。

 バンスの母親は,高校の卒業式で式辞を述べるほどの優等生であったが,卒業式の2か月後に娘を出産,大学には進学せず,19歳で離婚しシングルマザーになった。祖父母は彼女を看護学校に行かせるための学費を支払い,孫の世話もしたが,結婚と離婚を繰り返し,仕舞には麻薬中毒に陥いた。

 バンスが通ったイエール大学ロースクールの学生は,95%が中産階級か,それ以上の出身であり,バンスのような学生は皆無であった。米国の中産階級の年間所得は約16万ドルであるが,ロースクールの卒業生が就職して初年度に得る給料はこの金額に達すると言われた。

 バンスが感じたのは,クラスメイトたちの家庭と所得格差だけでなく,環境の違いであった。家族仲が良く,健全に暮らし,それぞれが自分の判断力と能力を信じて自信に溢れていた。しかし,底辺に生きる白人たちは,自分の人生に無力感を持ち,人生に絶望している。心理学者はこれを「学習性無力感(Learned helplessness)」と呼ぶ。大多数は幼児期の家庭の混乱を原因とし,自らがコントロールできず,悪循環に陥る。このような環境で育った子供は,不安定な精神状態に陥いやすい。イライラし易く,抑鬱による苦痛を味わい,成人後にも感情面の不安定に苦しむ。バンスのように成功し,物質的な貧困からは逃れることができても,精神的な貧困から逃れることは難しいという。なぜ底辺に生きる白人たちには家庭の問題が普遍的に存在し貧困から離脱することができないのか。主な理由は「社会的ギャップ」と「文化的ギャップ」であるという。

 バンスの家族はアイルランド人の末裔であり,彼らの祖先はスコットランドの南部で労働者,小作農,炭鉱労働者として生計を立てていた。彼らは高等教育を受けておらず,米国では彼らを「ヒルビリー(田舎者)のレッドネック(頸の日焼けした人々=貧しい白人労働者)」と呼んだ。バンスの祖父母は,もともとはケンタッキー州の小さな町に住んでいた。そこは石炭の産地であり,人々は農業に従事するか,炭鉱労働者として働いた。第2次世界大戦以降の米国では,中西部五大湖畔の近辺に工業集積が進んだことで労働力が必要になり,多くの労働者が家族と共に居住するようになった。バンスの祖父母もこの波に乗り,オハイオ州のミドルタウンに移住した。かつてこの地域は鉄鋼都市であり,祖父は鉄鋼所に就職した。

 バンスの祖父は他の「ヒルビリーのレッドネック」と同じように,貧困の農民からマイホームと車持ちのブルーカラー労働者になったが,70年代半ばの石油危機から米国経済に陰りが見えだし,脱工業化の進展で「ラストベルト」が拡大した。老齢の労働者は外地に出稼ぎも出来ず,かつ,不動産価格が急落したことから資産も減少,引越する費用すら捻出できない状況になった。

 インド出身のハーバード大学ラジ・チェティ(Nadarajan Raj Chetty)教授は,米国では子供は自身の能力によって人生を切り開くチャンスを掴めるが,ラストベルトの出身の貧困家庭の子供は,自らの力で社会格差を突破し,夢を実現することは非常に難しいと指摘する。その理由として①シングル家庭が多く,②経済的に弱者であるためと言う。

 最後に,なぜトランプ前大統領はバンスを副大統領候補に抜擢したのか。バンスはMAGA(Make America Great Again=米国を再び偉大な国にする)スローガンのラストベルトの出身で成功を歩んできた体験者である。氏を抜擢することによって,底辺に生きる白人の激戦区の票を確実に掌中に入れる勝算があり,バンスもトランプを絶対的に支持する。

[参考文献]
  • J・D・ヴァンス,関根光宏・山田文訳『ヒルビリー・エレジー:アメリカの繁栄から取り残された白人たち』光文社未来ライブラリー,2022年
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3508.html)

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