世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3474
世界経済評論IMPACT No.3474

金融経済界は別世界

鶴岡秀志

(元信州大学先鋭研究所 特任教授)

2024.07.01

 長年,筆者が籍を置いていた,製造業,小売業(商社),アカデミアといった業界の常識は,普段の生活でも通用するので世の常識から乖離するという感覚はほとんどない。ところが金融経済に籍を置く方々の一部は世間一般とは考え方が違うらしい。

 「世界経済評論」の読者皆様は「ヒヤリハット」という活動をご存知だろうか? 1929年に損害保険会社の調査担当だったハインリッヒという方が発表した論文が発祥である。「1:29:300」の法則という表現でも知られている。厚生労働省のホームページではそれぞれの数字ついての人への影響という観点からの説明がある。1(重症または廃失),10(傷害),30(物損のみ),600(傷害も物損もない事故)と示されている。この数字の意味をハインリッヒの法則として労働安全衛生普及組織や交通事故の査定を行う損保業界などが長年知識の普及に努めている。製造業,運輸業,農林水産業,小売業など幅広く取り入れられている概念で,多くの「新人」や「パートさん」が初期の職場教育として説明を受けるだけではなく,ベテラン社員への教育や各種免許講習でも取り上げられているほど身近なものである。

 厚労省ホームページでは多くの人が経験している例として,透明なドアや仕切りガラスに気づかずに激突するという事象が掲げられている。筆者を含めて読者の方々でも経験があるだろう。これを未然に防ぐ対策として多くのガラスドアや透明仕切りには銀色の飾りや注意書きシートが貼られていることを見かけることも多い。次回,街中やオフィスで少しばかり気をつけて観察されることを願う。

 「ヒヤリハット」は,日本語でハインリッヒの法則を注意喚起する標語である。1件の重大事故につながるものには,29件の軽傷事故があり,300件の事故にならない「ヒヤリ」としたり「ハット」と気付く事案が存在すると言うもの。すなわち,「ヒヤリハット」が300件発生するとまもなく1件の重大事故が発生するというふうに使われる。このように確率的な「確からしさ(これは数学用語です)」から不安全行動や不安全状態をなくす努力をしようという掛け声である。鉄道や航空に携わる方々が「指差呼称」「指差喚呼」という動作を行っていることもよく見かける動作である。また,工場や土木建設建築現場では必ず行う行動である。この動作は声に出して不安全行動や不安全状態のないことを「自らに確認させる」ことを目的としている。文系事務職から見るとつまらない,くだらないとみられがちな動作であるが,高齢者の仲間入りをした筆者も自動車運転時に交差点等を通過するときに実行している。地方都市は運転が日常生活の一部なので,寝起き,体調不良,仕事帰りの何時でも事故の可能性は存在し,指差したことで思わぬ方向から自転車が来たりすることに気が付くことが時々ある。(余談だが,自転車の右側通行は絶対にやめて欲しい。)

 重大事故は単独で発生するのではなく多くの些細な事案が積み重なって発生するので常日頃から「ヒヤリ」とした事象を上長に報告する,かつ職場・現場で情報を共有することで重大事故を防ぐ取り組みが重要となる。今年の元日に発生した海上保安庁の航空機とJALの旅客機の衝突事故も,事後の報道ではパイロットと航空管制の双方に「ヒヤリ」の事象が報告されていたものの抜本的な対策が取られないままであったことが一因と報道されている。他方,JALのアテンダントは繰り返し行われた訓練によって機敏な判断をすることができたとも報道されている。現場・職域における情報共有と,判断の日頃から訓練が重要であることを示す例となった。

 最近の街中での「ヒヤリ」事象は電動キックボードや電動自転車による自動車や歩行者との接触寸前の問題だろう。筆者の居住する長野市ではキックボードは稀なものの盆地で平らなところがほとんどないので電動アシスト自転車はかなり普及している。そのため,市中心部の登り坂の歩道をかなりのスピードで走る電動アシスト自転車に遭遇してヒヤリとすることが多い。全国や海外からの観光客も多い善光寺周辺は昔の街並みで歩道が狭く(といっても五人が並んで歩ける道幅である),歩道上は自転車通行禁止(善光寺境内は自転車乗り入れ禁止)であるが,善光寺から長野駅に向かってかなりの急な下り坂なので,電動アシスト自転車だけでなく非アシスト自転車もバスより速い速度で歩道を走行してくることが多く,時々歩行者との接触事象を目撃する。そのうち重大事故が発生するだろう。

 さて金融・経済業界の方々も日々の業務で「ヒヤリハット」をなん度も経験されていると思う。BloombergやCNBCの速報で債券市場が急騰・急落するがしばらくすると反転することがしばしばある。債券取引は水物でコンピューターによる高速取引に負けないように必死に頑張っておられると思うが,「ヒヤリハット」の報告,情報共有を積み重ねていれば我が国経済状況はもう少し良くなるのではないかと感じる。6月21日の日経電子版では「シン有事の円高」ということで為替市場の変動可能性を示唆しているが,実際の為替市場はこのような統計的歴史的事実に基づいた諫言をほとんど無視しているようにしか見えない。コメンテーターや霞ヶ関は基本的に文系なので,とかく「日本の再興にはイノベーションが必要。稼げる産業を!」と指摘されるが,その具体策となると,公式案をまとめる組織委員会や指南役が恐ろしい程のオールドファッションで論じるので「オワコン」そのものが大多数である。学術会議も同様で,これらの方々はキャリアコースを登ってこられたので「ヒヤリハット」講習など退屈で自分と関係無いで済ませてしまったのだろう。些細な事象をまるで考慮していない。NVIDEAが世界一の時価総額会社になったが,新型コロナの前からのコンピューターゲームへの画像処理チップ供給や仮想通貨取引のブロックチェーンでGPUの重要性が高まったことを思い浮かべた市場関係者は少なかったのではないか。まさに複数の「些細な事象」の積み重ねが「重大な」世界一を導いた。

 ハインリッヒの法則「ヒヤリハット」は頂点が上向きの三角形に例えられる。底辺の方に「傷害も物損もない事故」が多数存在することを視覚的に捉えることができる図である。我が国の10年以上に渡る低金利・マイナス金利政策は「傷害も物損もない事故=大多数の国民が物価高騰の苦しみを経験しない状態」が続いていたので,預金金利がタダ同然でも国民は不満を言うことがなかった。ところが2年以上,消費者物価が2%以上の上昇になり,特に食品・日用品の価格は2%どころではない状態で三角形の頂点「1」に近づいている。ウクライナ戦争前から非鉄金属の値上がりなどで,「ヒヤリハット」の三角形の下の方の「300」では物価高騰の兆しがあった。また気象災害による食糧の需給バランスも崩れ始めていた。「マクロ的」に見ている,つまりハインリッヒの法則の三角形底辺のさらに下を俯瞰的に見ている専門家は,大多数の国民にとって頭の痛い,たった1件の「消費者が直面する物価高騰」という重大事象を防げなかった。必ず出てくる言い訳は,「外的要因による物価上昇」である。政府,日銀の存在価値は物価安定で国民の安寧を図ることである。物価上昇の原因がなんであれ専門家であるなら,それを未然に防がないとアルゼンチンになってしまうことを予想すべきであった。現状に関してリフレ派の識者は「金利を上げると日本経済が沈む」と国民に脅しをかけている。直近のインバウンドでGDPが上昇することで寄与があり,政府と経団連主導の給与の上昇で国民がそのうち物価高騰に慣れるという。そこに導く人々は「来年の事を言えば鬼が笑う」と言う格言を改めて見つめる時に差し掛かっている。

 政府や有名コメンテーターの主張する文理融合の掛け声は,主に理系に金融経済の知識を持ってもらおう,文系は数学なんて知らなくてもいいよ,という感じにしか見えない。むしろ,文理融合の前に「ヒヤリハット」をキャリアの方々に学んでもらう必要があると思う。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3474.html)

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