世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3432
世界経済評論IMPACT No.3432

技術立国を支える人材の源泉

鶴岡秀志

(元信州大学先鋭研究所 特任教授)

2024.06.03

 2024年度の東京工業大学の統計では次のように発表されている。修士課程募集定員1544名に対して実際の入学者数1622名,修士課程在籍留学者数793名。修士課程は2年なのでごく少数の留年者を無視すると同課程のおよそ25%は留学生ということになる。米国の主要大学理系学部大学院修士課程では半数以上が海外からの留学生という場合もあるので25%という数字は驚くほどではない。注目すべきことは,この数字は一般入試による結果であり,特に中国からの留学生が増加しているということである。東工大大学院の場合,入試競争倍率は約2倍なので,①海外から優秀な学生が応募してきている,②日本人の学力が劣化し始めている,すなわち①と②を勘案すると日本人の大卒者の学力が中国をはじめとしたG7以外の国に確実に負け始めているという事実である。日本に留学して学んでもらうことは歓迎すべきことなのだが,この東工大の統計数字が示すのは「小中高の教育内容を改めないと,早晩,日本の技術立国など絵に描いた餅になる」という見たくもない現実である。留学生が我が国の振興のために日本に残ってくれれば良いのだが,日本の企業が外国からの留学生に魅力的な組織であるとは言い難い。多くの大企業は,日本の大学院卒業者を日本語の話せる海外支店の幹部候補としてしか見ていない。政府民間ともに多くの識者が技術立国再興を唱える中で科学技術系有力大学である東京工業大学のこの数字を真剣に捉える必要がある。

 メディアと政界はIT立国,生成AI技術分野におけるキャッチアップを声高に唱える。日経新聞をはじめとしたメディアはIT技術者数の不足予想を繰り返し報道する。あたかも我が国科学技術再興の要諦は生成AIとそれを司るIT技術者の如くである。これは20世紀末に半導体産業が傾いた時のデジャブと映るのは筆者だけではないだろう。この時の教訓は,半導体産業が世界一だった時の大学教授らと企業の幹部を集めて対策を議論したことにある。米国に半導体輸出を強制的に抑えられたが,その後の米国シリコンバレーのソフトウエア企業の急成長と韓国や台湾の半導体メーカーの勃興を見ると,当時の産官学の議論と方針は過去の栄光にこだわりすぎたことが分かる。1999年から開始されたDocomoのiモードやメルマガは革新的なソフトウエアシステムだったのだが,産官学の有識者は若い技術者のソフトウエア開発を重視せずハードにこだわり続けた。2000年代後半に,政府系団体・経団連が主催し開催された,ナノテクを含むテーマの講演会に参加した時でさえ,当時の産官学の頂点を仕切っていた有名教授はDRAM(記憶素子)の「今度の展開」しか話していなかった。

 IT人材育成を主眼とする政府方針(業界方針)に沿って,小学校低学年からI Tに触れさせる教育が導入されている。小学生にプログラミングを教育することは悪いことではないが,基本的な日常業務用汎用プログラミング,例えばホームページやCM用画像処理,企業や役所の書類作成などはすでに生成AIでかなり自動処理が可能なのでプログラミングを教育するよりは活用の方法を学ぶべきである。YouTubeやTikTokは学校で教わらなくても盛んに使えることは初等教育でのIT授業が無駄であることを示しているので,文科省は見たくないのかもしれない。

 数学より先にゲームを作る程度のプログラミングを教える必要性は,ITを活用する人材を輩出するという観点では全く無意味である。筆者の小学生時代は,学校でそろばんを買わされ教えられたが,プログラミング教育はこの無駄な教育の轍を踏むであろう。技術立国の要は生成AI新規開発ではなく,生成AIのシステムを活用するための数学的処理方法の構築である。数学というと数式にこだわってしまい思考停止になる文系の方がほとんどだが,ポイントとなるのはアナログな情報をデジタルに置き換えるためには数式が欠かせないことである。三角関数のサイン・コサインの曲線もコンピューターは直線の組み合わせで描いている。

 国立情報学研究所が2022年に開発・公開した「くずし字認識ソフト」は出色であり我が国独特のものである。日本語は楷書であれば読み間違いはあるもののそれなりに読めるが,「くずし字」になるとほとんどの人がお手上げである。各々の字の形だけではなく一つづきの文で判別する場合も多い。また書き手によって崩し方に特徴があるのでより一層判読しにくくなる。技術的には文字をマス目に入れて点に分解し,その分布を2次元解析で標準的なパターンとの比較で判別する。郵便局の郵便番号と宛先読み取りシステムはこの方法で実用化している。郵便局が苦労している「くずし字」は前後につながっていることで読めるものもあり,国文学や古典典籍の研究者と数学やプログラミング専門家の共同作業によるパターン認識技術が不可欠となる。北本朝展 et al., 電子情報通信学会誌 102, 563-568 (2019)にくずし字の読み取りアルゴリズムについての一例が解説されているので一読されたい。

 このように,本来交差しそうもない事柄から我が国の教養文化を底上げするテクノロジーを生み出していくことが生成AIの真の有効活用と思うのだが,現在の基礎教育におけるITの取り扱いは明らかに「単なる流行」を取りこぼさないようにする弥縫策でしかない。「くずし字認識ソフト」のような文理融合によって初めて達成される技術を多数生み出すには従来の基礎的な教科をより充実させた方がよっぽどマシであろう。金利が上がっても下がっても「買い」,前日は爆上げで判断条件はそれほど大きく変わらないのに今日は爆下げという,金融経済の常識を外れてタガが緩んでいるような投資についての教育など博打打ちを増やすだけである。特に憂慮すべきは証券会社の人が教えていることである。詐欺師が市井の人に詐欺を防ぐことを教示するようなものである。

 IT立国を目指すならば,ITを支えるインフラ投資整備とその人材育成を怠ってはならない。肝に銘じなければならないことは,ITは電気がなければただの「板」と「箱」である。生成AIは膨大なデータベースを保管するメモリーとスパコン・サーバーを必要としている。これらの設備は電気の「ガズラー(ガソリンを大食いしていた70年代の米国車を揶揄した表現)」である。先日公開されたChat GPT4oの応答の早さから見てスマホは単なるインターフェースであり,紹介ビデオのようなサクサクとした動作はデータセンター・サーバーとスマホとの間の通信回線が混雑していない状況での「絵」である。筆者の住まうマンションのようにNETFLIXの使用が集中すると通信速度が遅くなるような環境ではこの「絵」のようなサクサクとした通信環境は望むべくもない。さらに,電力網が安定していないと思わぬ通信トラブルが発生する。現在のコンピューターシステムは多少の電力系統電圧の変動による周波数変動などものともしないデジタル制御システムであるが,それでも電圧の変動幅が一定値を超えると冷却ファンが誤作動する,トランスが働かない(=半導体に電気が供給されない)など,スマホの中継基地が機能しなくなるような甚大な被害が生じる。

 電気の安定的な供給を維持するには発電所を作るだけではなく,エネルギーの源の探索,採取・輸送方法,道路港湾,ダム,発電所,送・変電所を建設する土木技術など多岐に渡るインフラ技術を必要とする。これらの事柄を維持発展していくためには理工系の広い分野で多くの人材を継続的に育てていくことが求められる。I T立国と唱える方々は,まるで半導体とソフトウエアが揃えば技術が発展するようなことを言うが世の中はそんなに簡単で甘いものではない。

 東工大の大学院学生の構成を見ていると,経済安全保障の観点からもいわゆる基礎工学分野を日本国としてどうするのかを決めていかなければならない。昨年来,経済情報は新NISA投資の話ばかりであるが,はしゃぎすぎでなかろうか。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3432.html)

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