世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3394
世界経済評論IMPACT No.3394

潘文淵物語:なぜ“台湾半導体の父”と呼ばれたのか

朝元照雄

(九州産業大学 名誉教授)

2024.04.29

 英語のフレーズに「The right person, at the right time, do the right thing!」がある。「The right person」とは,この仕事の「正しい適任者」,「at the right time」とは,「正確な時期に」,「do the right thing」とは「理屈や損得ではなく,まっとうなことをする」の意味である。本稿における主役は潘文淵博士である。

 今日,台湾は「半導体強国」として世界から注目を浴びている。しかし,1970年代前半まで,台湾の殆どの人々は半導体とはなにかを知らなく,台湾では半導体チップの封止め以外に半導体産業は存在していなかった。台湾の半導体を論る場合,「台湾半導体の担い手」や「台湾半導体の父」と呼ばれた潘文淵は欠かすことができないキーマンである。潘文淵が台湾にもたらした貢献を称えるため,台湾の新竹サイエンスパークの工業研究院(ITRI)展示室の一角に潘文淵博士記念室が設けられている。また,「財団法人潘文淵文教基金会」が設立され,博士の貢献を称えている。同基金会では「潘文淵賞」を設けており,TSMCの創業者張忠謀(モリス・チャン)や,カリフォルニア大学バークレー校胡正明教授(半導体におけるFinFET技術の考案者)などが受賞者に名を連ねる。これまでも筆者は,ITRIを見学したことがあるが,昨年10月に特に潘文淵博士記念室を再訪した。

小欣欣豆乳店の朝食ミーティング

 潘文淵(1912年7月15日~1995年1月3日,享年83歲)博士は,江蘇省蘇州に生まれ,1935年に上海の交通大学電機系を卒業した。1937年に公費留学生として米国・スタンフォード大学に進学,1940年9月に工学博士の学位を取得後,マサチューセッツ州ケンブリッジの電波放射試験室に就職した。

 1945年~1974年にRCA(Radio Corporation of America,1986年にGEによって合併)のプリンプトン試験室に転職し,超短波(UHF)技術を研究,集積回路(IC)のR&D総監を務め,その期間に100編以上の学術論文を発表し,アメリカで30項目の特許および200項目の国際特許を取得した。RCA勤務中の1958年に米国・IRE(IEEEの前身)からフェロー(fellow),1961年に米国・AAASからフェローが贈呈された。

 1966年に行政院国際経済合作発展委員会の秘書長(幹事長)であった費驊と潘博士は「近代工程技術討論會(METS)」を組織し,同年6月に第1回近代工程技術討論会を開催した。1968年に潘博士は交通部孫運璿部長(交通相)からの委託を受け,交通部および電信研究所に諮問委員会を組織し,R&D戦略の企画に協力した。

 1973年7月には工業技術研究院(ITRI)が設立された。同年10月中國工程師学会理事長であった費驊は,電信総局局長の方賢齊と潘文淵と台湾のハイテク発展のための国家戦略について議論し,電子産業の発展に向け取り組むことを決心した。翌1974年,電信総局からの招聘を受け台湾に帰国した潘博士は,電子産業の調査を開始した。

 同年2月7日,経済部の孫運璿部長(経済相),交通部の高玉樹部長(交通相),行政院の費驊秘書長(官房長官),電信総局の方賢齊局長,ITRIの王兆振院長,交通部電信研究所の康寶煌所長が潘博士を囲んで,「小欣欣豆乳店」(台北市南陽街40号)で朝食ミーティングを行い,潘博士より集積回路(IC)の技術開発に関する提言を受けた。続く,同月11日,潘博士は「計画書と提言要点」を,方賢齊電信総局長および王兆振ITRI院長と連名の形で経済部および交通部に提出し審査を受けた。そして孫経済相,高交通相から「積極的に処理する」との同意・承認を取り付けた。この豆乳店の朝食ミーティングが台湾の半導体産業の発展に向けた第1歩を踏み出した場となったのである。残念ながら台湾の半導体技術の幕明けを決めた記念すべき「小欣欣豆乳店」は,現在すでに閉店し,昔の面影は記念室の展示写真から見ることしかできない。

TACの組織

 1974年7月10日に孫運璿部長は,潘博士を招き,米国において有識者による「技術諮問委員会(Technical Advisory Committee,略称TAC)」を組織し,台湾の半導体発展に積極的に寄与するように説得した。その後,潘博士は「集積回路計画案」を作成し,7月26日に孫運璿部長に提出した。

 同年8月17日,孫運璿部長は張光世次長,陳文魁技監,工業局韋永寧局長,王兆振院長,顧光復副院長,康寶煌所長,方賢齊総局長を集め,潘博士から提出された計画書につき討論し,すべての提言を実行することを決めた。8月21日には潘博士を経済部顧問に任命し,同月28日にITRI理事会で半導体技術の導入案が可決され,「電子工業R&Dセンター」(電子工業研究所の前身)が設置された。

 米国に戻った潘博士はTACを組織し,氏の人脈により羅旡念(米国初の半導体に関する書籍の著者),凌宏漳(米空軍初のIC製造者),厲鼎毅(光ファイバー通信領域で「DWDMの父」と呼ばれた人物),李天培,葛文勲,趙曽珏など7名の錚々たるメンバーを諮問委員として集めた。のちに虞華年(IBM社ワトソン研究センターのIC製造で1μm(マイクロメートル)を突破した人物,1995年に亡き潘博士の後を継ぐTACのリーダー),徐大麟(漢鼎亜太董事長),王伯元(怡和創投董事長)などがTACに参加した。

 TACは台湾における半導体産業の技術向上のために,米国で設置された華人系のコンサルタント組織(無償奉仕)である。TACメンバーは全員無給で,台湾での会議が開催される時は交通費・宿泊費のみを受け取って参加した。潘博士自身,それまでも台湾で給料をもらったことはなく,また台湾で教育を受けたことも,定住したことも無いが,「台湾のハイテク産業を先進国に追いつかせる」という熱意と愛国心に突き動かされてこれに取り組んだ。

 同年9月16日に潘博士はRCAのプリンプトン試験室総監という高い職位にも関わらず,勇退を選択し,台湾のIC技術の発展に尽力して,「官僚に就かず,給料を受けず,往復旅費と宿泊費用のみを受け入れ,年に3度台湾に行き,それぞれ2カ月滞在する」という3原則を貫いた。その後,潘博士は台湾と米国との間で飛び回り,台湾における半導体技術の定着と発展に全力を尽くした。

 1974年10月26日に初回のTAC会議が開催され,孫運璿経済部長も米国でこれに参加した。当時,半導体に対する基礎知識を持たない台湾では,端から自前のR&Dに取り組むより,米国の著名な半導体製造企業から技術を導入し,習得する方が早いと結論付けられた。1975年,潘博士と羅旡念は米国で半導体技術を有する企業を回り,TACメンバーとの協議に基づいて14社のリストを作成,同年2月にナショナル半導体,RCAなどの企業に半導体技術導入協力書簡を郵送し,その内7社から企画書が返送された。TACメンバーはこれをGI(ゼネラル・インスツルメンツ),ヒューズ・エアクラフト,RCAの3社に絞り込んだ。ロジックICに属するCMOS型IC(相補型金属酸化膜半導体)の技術が成熟しており,ITRI所員を研修生として受け入れ可能で,パイロットプラントで製造されたICの購入を承諾してくれたRCAが最終的に技術提携先パートナーとして選らばれた。これによって,半導体の導入という台湾版「プロジェクトX」が着実に推進するようになった。

 潘文淵とTACの貢献は,①台湾における半導体技術導入の提言と国家を個人の利得の上に置く“無私”による尽力。②TACの組織と適切な諮問(CMOS型ICの選定,提携先の選定),③RCAから技術導入時の協力獲得,④ITRIの院長,電子研究所などへの協力と助言が挙げられる。

 ITRI電子研究所の所員はRCAから半導体技術を習得後,1980年に聯華電子(UMC),1987年に台湾積体電路製造(TSMC)がスピンオフし,この2社が台湾を代表する半導体製造企業に成長した。

 潘博士の死後,1995年10月4日に李登輝総統は氏の貢献に報いるため褒揚令(褒状)を授与した。

[参考文献]
  • 洪懿瑩『創新引擎-工研院:台灣産業成功的推手』天下雑誌,2003年。
  • 蘇立瑩『也有風雨也有晴:電子所20年的軌跡』工業技術研究院電子研究所,1994年。
  • 朝元照雄『台湾の経済発展』勁草書房,2011年,第1章「産業の高度化と技術のインキュベーター」,第2章「新竹科学工業園区と産業集積」,第3章「半導体産業の形成と発展」。
  • 朝元照雄『台湾の企業戦略』勁草書房,2014年,第1章「台湾積体電路製造(TSMC)の企業戦略」。
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3394.html)

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