世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3060
世界経済評論IMPACT No.3060

揺らぐマレーシアのアファーマティブアクション:米における違憲判決の衝撃

池下譲治

(福井県立大学 客員研究員・ITI 客員研究員)

2023.08.07

 米最高裁は6月29日,従来の判断を覆し,ハーバード大とノースカロライナ大が入学選考に際して採用してきた,アフリカ系およびヒスパニック系アメリカ人を優遇する「アファーマティブアクション(積極的是正措置,以下「AA」と称する)」は,修正第14条の平等保護条項に違反しており,「違憲」であるとした。奇しくもそれは,マハティール元首相が「マレーシアのアファーマティブアクションは維持しなくてはならない。なぜなら,マレー系の学生やビジネスパーソンはそれなしには競争できないのだから」との挑発的なツイートを発信したほぼ翌日のことであった。

 ところで,米国と同様,AAを採用しているマレーシアでは,英統治下時代の移民労働者政策によって民族の棲み分けが実施された結果,主に,地方に居住するマレー系と都会に住む中国系との間に著しい経済格差が生じたことから,独立に際して,ブミプトラ(マレー系と先住民族)の特別な地位が憲法(第153条)で保障されるに至っている。主にマレー系を優遇するこうした政策は,一部の中国系との間に強い確執を生み,結果として,シンガポールの独立へと至った経緯がある。ただし,現在,論争されているのは,その後,69年に勃発した人種暴動を機に導入された,71年の新経済政策(NEP)におけるAAである。資本所有比率,教育,雇用,住居,融資,さらには,子ども手当てにまで及ぶ,マレー系への手厚い優遇策は50年以上経過した今も続いている。その結果,民族間格差は縮小したが,都市部と地方およびマレー系内の格差はむしろ拡大しているほか,既得権益層による汚職の蔓延や国際競争力の低下など,今では弊害の方が目立っている。特に,大学入試に関しては,すでに殆どの国で禁止されている特定民族へのクオータ制が維持されていることなどから,裕福な中国系などを中心に,欧米などの大学に進み,そのまま国外で就職する「頭脳流出」問題が深刻化している。マレーシア人的資源相によると,マレーシア人の海外移住は2022年には186万人に達するなど,この12年間で倍増しており,頭脳流出に歯止めがかからない状況にある。

 こうしたことから,今回の米最高裁の判決はマレーシアでも注目されている。特に,ロバーツ裁判長が強調した「学生は人種的背景ではなく,個人としての経験に基いて評価されるべき」との発言は「マレーシアの学生もそう扱われるべきではないか?」との声が上がるなど物議を醸している。こうした中,アンワル首相は7月8日,訪問中のケダ州ウタラ(北)大学で,学生からの関連質問を受けた際,「高等教育におけるブミプトラ学生枠は維持する必要がある」・・「もし,同枠がなくなれば,マラヤ大のマレー系学生数が工学部でゼロ,医学部でも僅か12%に過ぎなかった60年代,70年代のような格差が再び生まれることになる」とした上で,「とはいえ,クオータ制は能力主義を否定するものではなく,優れた能力を有する者には,政府は相応の機会を提供する途を探さなくてはならない」と補足するなど,苦しい答弁を強いられた。この発言には,翌日,教育相が慌ててフォローするなど,政府内における動揺の様子が見てとれる。

 ところで,大学への入学に際して人種を考慮すべき理由として,これまで,米国などで肯定派が主張してきたのは,「共通テストで生じる偏りの補正」,「過去の過ちに対する補償」,そして「多様性の確保」の3点だ。中でも,大学がもっとも重視しているのが多様性論である。この7月からアフリカ系アメリカ人として,初のハーバード大学学長に就任したクロ―ディン・ゲイ学長も「多様性がある知性のコミュニティーが,優れた学問には不可欠である」として,今後も多様性を重視する姿勢を貫くことを強調している。

 では,マレーシアの大学入学に際して,マジョリティーを占めるマレー系が優遇される理由は何か。それは,英植民地時代の「補償論」と「憲法上の特別な地位」で説明されている。しかし,憲法で規定されているのは抽象的かつ穏やかな表現であり,NEPによる極めて優越的なAAの根拠とするには些か無理がある。加えて,イマヌエル・カントが唱えるように,過去にある集団の人々が合意したという事実をもって,その憲法を公正なものとみなすことはできない。たとえば,1797年制定の合衆国憲法では奴隷制が容認されていた。瑕疵が残ったのは同意の在り方に問題があったからである。当時の憲法制定会議にはアフリカ系アメリカ人は参加していなかったのである。翻って,1956年にロンドンで行われたマレーシア憲法制定会議のメンバーをみると,マレーシアから参加していたのは4人の王族代表およびアブドル・ラーマン初代首相と3人の大臣などに過ぎない。米国とは状況が異なるとはいえ,それでも,当時のマレーシア国民の総意に基づいているとは言い難い。

 最後に,現状を踏まえれば,現在,マレーシアの国立大学などにおけるブミプトラ枠が撤廃される可能性は極めて低いと言わざるを得ないが,頭脳流出を防ぎ,大学本来の存在意義を達成するためにも,多様性の確保に向けた改革は喫緊の課題である。そのためには,枠の見直しもさることながら,優れた能力を有する者には,民族の枠を超えて,能力を活かす機会を提供することが大事である。ケダ州の学生の質問に対してアンワル首相が約束した新たな途が遠からず拓かれることを期待したい。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3060.html)

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