世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
科学技術力の衰退:古いルールが衰退を助長した
(信州大学カーボン科学研究所 特任教授)
2018.06.18
前回,論文博士のことに触れたが,問い合わせから理工系における論文博士の問題が知られていない事が逆に解った。文科省は最新の科学技術白書でも「人材確保が急務」と言いつつ,世界基準から見たらおかしなことを続けている。
文科省の「中央教育審議会大学分科会大学院部会第31回資料(平成17年)」に,将来的に論文博士(「R&D業界」ではペーパードクターというので以下PD)を廃止すべきとの指摘がある。本来博士号授与は,大学でCourse Work(=普通の授業,以下CW)を受けた上で論文を収める。文科省は17年以降も都度PDの在り方について意見をしているので人材育成の観点から重要案件と理解していることが覗われる。国内では珍重されない博士号も欧米文化では重要な社会的資格で,本来の趣旨以外で欲しい人が後を絶たないのでPD制度が存続していると予想される。なお,米独蘭はPh.D.,英仏日はDr.であり,大まかにCW制度,すなわち基礎教養習得のレベルを表している。欧州でも多くの若者が米国Ph.D.の取得を目指すのはこれに起因する。
米独蘭では,Ph.D.取得の水準を大学や個々の研究者に任せずに専門分野別に標準化している。特に米国では主要大学が協議して博士課程CW内容を規格化しているので,理工系では出身大学にかかわらず知識の土台を共有する。また,専攻も工学なら機械系,Civil Eng., というように大枠で分類されているので,工学部共通科目というのが数多く設定されている。学位取得後の就職も論文内容よりはCWの成績が重視される。具体例として筆者の先行分野では,博士論文に着手するためには,大学院CWの必修及び選択科目単位数と成績で基準が定められ,基礎知識ベースラインを超えて始めて次ステップへ進めた。さらに,最後の難関のPh.D. 最終口頭試問試験挑戦者の合格率は全米統一で30% と決まっていた(米国大学は落第式なのでそれほど無茶な数字ではない)。
PDは,種々の事情から学位を取得できなかったが同等の基礎を学んでいることを前提に優秀な研究業績を持つ専門家への救済措置であった。いつしかルールの拡大解釈で教授や研究グループの勢力拡大ツールとして使われるようになった。これを繰り返しているうちに次第に蛸壺化したので多くの技術分野で劣化が起こってしまった。PDが教員になり,PDの弟子を増やして,その中からまた教員が生まれ…。学者の方々はそうでないと反論したいだろうが,現実に「仲間内」の発表会になっていない国内学会はどの程度あるだろうか。先進国の学会で海外からの一般参加者がパラパラという状態は「情けない」の一言に尽きる。日本語は理由ではない。過去の栄光の時代の電子電気工学系学会は外国人が多数参加して英語日本語ちゃんぽんで議論していた。
我が国では終身雇用制の極まりから,修士卒業後に就職してその会社で専門家になることが一般である。必然的にそうなることが(そういう選択にならざるを得ない状況が),平成30年度版科学技術白書に記載されている。ドクターの常勤就職率が50%,ポスドクを採用する大手企業が1%という現状では,優秀な若者ほど博士課程進学を躊躇するのは当然である。しかし,修士卒では生活は安定するけれども世界と戦うための基礎学力は身につかない。つまり,優秀な若者を研究者として育てる前提条件が崩れている。かつての江崎博士のように企業で基礎研究を行える時代ではない。結果的に,はるか昔の貧しい時代にに定めた「代用」制度が科学技術の基礎を揺るがし,日本の産業経済の土台を侵食している。米国に留学した途上国の若者の方が優秀である理由は標準CWを経て基礎学力が高いためである。科学技術は,共通の土台がなければ議論がちぐはぐになるので,結果的に引きこもりに陥り世界の趨勢を見なくなってしまう。すなわち,世界は標準ルールの下に自由に意見を交わして前進するのだが,日本はローカルルールの下で派閥ボスの自己満足に陥り世界競争から乖離へと向かっている。
博士号は肩書ではなく新しいもの生み出すための重要な免許であり智者への登龍門入場券である。文部科学省は問題を指摘しつつ,施策を自画自賛しているが,国際的に見た場合の高等教育の欠陥を抜本的に是正できていない。工学系の「共通言語」の1つである「ベクトル解析」を知らない工学博士や工学部教授が多数存在すること自体,異常である。現実に,教えられる人が減ってしまい授業さえなくなっている学校がある。優秀な若者は米国か中国を目指す現状を見据えて,早急に高等教育システムの国際レベル化を図らないと我が国の未来は無い。
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