世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.4041
世界経済評論IMPACT No.4041

一括交渉条項(CNC)で中心性を取り戻せ:ASEANは「集団的交渉機能」を回復せよ

助川成也

(国士舘大学政経学部 教授・泰日工業大学 客員教授)

2025.10.20

ゲーム理論「囚人の罠」に嵌ったASEAN

 米トランプ政権は4月,世界の広範囲に相互関税の適用を表明した上で,90日間の適用猶予期間を設け,各国に米国との早期交渉を促した。ASEANで真っ先に交渉入りを表明したのは,特に米国向け輸出比率が高く,46%もの相互関税を提示されたベトナムである。ベトナムは能動的な交渉を進め,相互関税20%を勝ち取った。当初は,ベトナムが勝者に映った。

 しかし,ベトナムの合意を号砲に,他のASEAN加盟国はベトナムから劣後することを懸念し,次々と米国と本格交渉に乗り出した。最終的に8月,ASEAN各国に通告された相互関税はシンガポールの10%,ラオス,ミャンマーの40%を除き,ベトナムより1%低い19%であった。ASEAN主要国はベトナムに劣後しないことに安堵したが,個別交渉は地域全体の厚生を下げる。これはゲーム理論の「囚人のジレンマ」の典型。たとえばA国が先に大幅譲歩をして関税除外や数量枠などの優遇を得れば,貿易や投資がA国へ移り,B国は相対的に不利になる。B国は不利益阻止のため,A国と同等かそれ以上の譲歩を急がざるを得ない。双方が譲った割に,関税格差で見返りが乏しい低位均衡に陥る。今回の米国とASEAN加盟各国との交渉は,まさにこれをなぞった形。ASEAN加盟国は個別に交渉したことで,集団的交渉機能が発揮できず,統合体としてのASEANの魅力が損なわれた。

 また,米国との二国間交渉で対等な交渉は望むべくもない。米国側は並行的に交渉している域内競合各国との交渉情報を有しており,大国はこれらを用いて自らに有利な交渉環境を形成できる。

交渉手法に課題を残したASEAN

 米国は追加関税を表明し,例外や優遇を餌に二国間交渉へ誘導する三段ロジックを採った。これは過去に欧米列強がアジア・アフリカ諸国を植民地化する際に採った「分割して統治(divide and rule)」政策で,ASEANは分断され,域内競争を煽ることで共同歩調を防ぎ,より自らに有利な交渉に持ち込んだと解釈できる。

 ASEANの米国との個別交渉は,域内厚生や一体性,中心性の観点からみれば失敗である。米国の対ASEAN関税は国別に段階化し,域内同一待遇が揺らいだ。また交渉過程での米国製品と米国以外の製品との市場アクセス条件格差は,世界貿易機関(WTO)の最恵国待遇(MFN)の観点から係争リスクを招き,制度的不確実性を増幅させる。交渉で得た特典の域内横展開(MFN的内生化)の欠如も問題である。米国から個別に得た関税・手続きの優遇格差は,そのまま域内の不公平として残る。

 ASEANとして米国と集団的に交渉できれば望ましいが,個別交渉を強いられた場合でも,加盟国は共同原則(事前通報,短期協議,影響評価)を最低限設定すべきである。条件面でも「域内共通の下限」を提示すれば,より良い包括条件を引き出す交渉力として共同BATNA(ASEANが共同で取り得る最良の代替行動:Best Alternative to a Negotiated Agreement)が強化される。結果として,譲歩競争を回避し,域内厚生を最大化できる。

「一括交渉条項」の内部ルール化を

 ASEANの「中心性」は,制度の連結点としての機能があってこそ意味がある。分断による取引コストが累積する前に,ASEANは「一括交渉条項」(Collective Negotiation Clause: CNC)を内部ルールとして導入すべきである。

 一括交渉条項の狙いは単純である。関税・補助金・原産地規則・データ移転・投資審査などASEAN域内に重大な影響を及ぼしうる交渉案件については,当該国が個別交渉を最終化する前に,ASEAN事務局に事前通報し,所定の期間,域内協議を経ることを義務づける。域内協議は強制力を持たないが,共同交渉の可否を判断し,透明性と時間軸を与えることで「囚人のジレンマ」的均衡を崩せる。緊急安全保障案件には限定的な例外を認めるが,その場合でも事後通報と年次レビューを必須とするのが望ましい。

 期待効果は三つある。第一に交渉力の集約である。一国では提示しづらい「域内水準」を,共同交渉のBATNAとして掲げられる。第二に予見可能性の回復である。企業は事前通報と影響評価を参照し,政策リスクの評価が可能になる。第三に制度の水平化である。個別合意の断片化を抑え,RCEPやASEAN+1FTAなど既存のFTA網との整合性を保ちやすい。

 米トランプ政権は残り3年であるが,「分割統治」手法が成功と認識されると,次の政権や他の大国も同様の譲歩をASEANに求めてくる可能性がある。CNCは交渉力を再編する低コストの防波堤であり,導入ロードマップを早急に描くべきである。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article4041.html)

関連記事

助川成也

最新のコラム