世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
ヴォルテールの死角
(杏林大学総合政策学部 教授)
2022.02.14
江戸時代に「士農工商」などという身分制度は,実際にはなかったというのが,今日一般的な歴史理解ということになっているようである。しかし,それによって,もっとも低い扱いを受けていた「商人」が救われたかというと,そうとは言えない。商業蔑視は,古今東西,歴史を通じて一貫していたと言っていい。
もっとも古いところでは,アリストテレス(B.C.384-B.C.322)がいる。彼は『政治学』の中で,富を用いて富を獲得するための経済活動を「商いの術」と呼び,これを日常的な必要を満たすための経済活動と区別した。そして,それらは不自然なものであり,「咎められて当然」とまで言っている。その中でも不自然さのチャンピオンは,貨幣を用いて貨幣プラス利子を得る行為であった。
そしてその考え方は,その後近代に至るまでおよそ2000年間にわたって,影響力をもち続けたのである。古代ローマ,そしてもちろん,キリスト教が支配する中世ヨーロッパにおいてもである。何しろ,お金持ちが天国に行くのは,「ラクダが針の穴を通る」よりも難しいというのだから。
それらが建前にすぎないことは,その通りである。政治,宗教を問わず,実際の組織のトップは常に莫大な資産にまみれていたし,金融も,その汚名をユダヤ人に押し付けて,それでもそれが必要であったのだ。
しかし近代,それも18世紀ともなると,営利を求める経済活動はようやく市民権を獲得するに至る。しかもそれは,社会を平和に調和させるメカニズムとして認められるに至ったのである。
社会を争いごとから救済し,調和させる力とはなんだろうか。いや,そもそもそのようなものは存在するのだろうか? 古代においては,その力は道徳心であり,中世においては宗教によってもたらされるはずのものであった。何しろ,自分と同様に自分の隣人を愛することを求められるのだから。
とはいえ,道徳心は誰もが持てるものではない。また,隣人を愛するはずの宗教も,それが異なる宗教であったり,あるいは同じ宗教であっても宗派が異なっているとなった途端に,見るも残虐な殺戮が普通に行われるようになる。11~13世紀の十字軍,そして宗教改革後,16,17世紀のヨーロッパは,内戦と大量虐殺,異端者の追放にまみれていた。
ヴォルテール(1694−1778)が当時のイギリスの証券取引所で観察したのは,さまざまな宗教・宗派を奉ずる人々が,互いを激しく批判しつつも,平穏に互いを信頼して取引を行っている様子であった。それはさながら,舞台においてすぐれた演技者が調子を合わせ合うかのようであった。宗教的熱狂ではなく,まさに営利を求める経済活動こそが,異端派も異教徒も,人々から争いを拭い取ってくれるという,ヴォルテールの彗眼とも言うべき観察である。
ただし残念ながら,そこには死角も存在すると思う。なるほど,人は営利のために平和な合意を形成しようとするだろう。経済学における自由放任主義,市場原理主義は,まさにこの観察を新たな神―「見えざる手」を駆使する―として奉ずるのである。しかし人々がとりあえず合意へと進んで向かうのは,あくまで経済的な側面についてだけであり,他の側面については必ずしもそうではない。そして「その他の側面」は,一部の経済学者が考える以上に,人々にとって重要なものなのだ。
いかに営利を新たな神の地位に取って代えたとしても,宗教,人種,ナショナリズム,共同体の内と外,力への意志,……多くに人々にとって,それは日常の一部であり続けている。
EUの経済・通貨統合を振り返ると,とりあえず統合を進展させることができた領域が,いかに経済的な領域に限定されるかを知る。しかしそれ以外の部分については,歩み寄ることができない。今も昔も,である。そしてそれ以外の部分について統合を強行する試みは,大きな不和を招いている。
貿易戦争などと呼ばれるように,世界には経済的な部分についても不和があるではないか,と言うかもしれない。それは一部の経済活動が政治的になったことの結果である。争っているのは国の上層部同士であり,取引を行う当事者たちは,多くの場合においてすぐれた演技者であり続けていると思う。
ヴォルテールの観察は疑いもなく正しい。しかし,それは物事の一面である。人類に平和共存の道が開かれ得るとしたら,その道は経済的営利以外で舗装されていることだろう。
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