世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1439

「国の借金」というレトリック

西 孝

(杏林大学総合政策学部 教授)

2019.08.05

 「国の借金」という表現が,当の財務省のホーム・ページはもちろん,メディアの経済ニュースにも頻繁に登場するのはご存知の通りだ。それらの関係者の経済学的認識がとりわけ低いとは考えられないし,考えたくもないのだが,いずれにせよ,無知に基づくものでなければ,意識的・作為的なものであると判断せざるを得ないだろう。

 それは経済学以前の国語の問題である。「国の借金」という言葉を字義通りに理解すれば,それは「日本という国が(外国に対して)負っている借金」という意味になるし,多くの人がそう理解するのは自然なことである。したがって,財務省が「国の借金が,2019年3月末時点で1103兆3543億円だった」と公表するときに,人々は,日本という国がそれだけの借金を外国に負っていると感じるし,公表する側もそれを意図しているのだと思われる。またそれを「国民一人当たり」に計算するとなると,ますますその感は強められるのである。そこでわき上がるイメージは,日露戦争の頃のような日本の姿であるのかもしれない。そして実際,当時の日本はその通りだったのである。

 実際に問題となっている債務残高は,「日本の政府部門が負っている債務」である。こちらはレトリックではなく,正しい国語と経済学に基づくものである。

 どの国も,その経済部門を大別すると二つになる。「国内部門」(ex. 日本)と「海外部門」(ex. 日本以外の国々)だ。さらに「国内部門」を分けるのであれば,その国の「民間部門」と「政府部門」に分けることができる。

 「政府部門」の債務とは,政府の行う支出が,税・移転等による収入を超過することで生じる。いわゆる「財政赤字」である。それが長年,積もり積もって「政府債務残高」の金額となる。2019年3月末時点で1103兆3543億円だったのは,まさにその金額である。

 これに対して,正しい国語に基づく「国の借金」とは,「海外部門」への債務ということになる。これは輸入代金や海外への所得の支払等が,輸出代金や海外からの所得の受取等を超過することで生じる。平たく言えば,海外から受け取る金額よりも,支払わなければいけない金額の方が大きいときに生じるのだ。これは,国際収支表における「経常収支」が「赤字」になることを意味する。それが積もり積もれば,残高として「国の借金」が累積することになる。

 ちなみに日本の経常収支は,1980年代以降一貫して「黒字」である。つまり,海外からの受取超過が,40年弱も続いているのだ。当然,その結果,「国の借金」どころか「海外への貸し」(対外純資産という)は,30年弱の間,世界第1位であり続けている。

 貸す人がいなければ借りることはできない。日本の場合,「政府部門」が債務を抱えている一方で,「海外部門」へは多額の貸しがあるということは,「政府部門」の債務は外国から借りているわけではないことになる(この点は,アメリカや,ギリシャと異なる)。では,日本の「政府部門」は誰からお金を借りているのか? ご存知の通り,その答は国内の「民間部門」,つまりわれわれである。われわれは政府に対する債権者として,資産を保有しているのである。

 昔から庶民は,政府を「お上」とか「お国」と呼んでいた。だから「政府の借金」も「お国の借金」も,庶民にとっては似たようなものなのだ,とでもいうのだろうか? 違うものは違うのだ。

 ちなみに,同じくらいよく用いられる「将来世代への負担」というレトリックも不適切である。政府の債務を返済するための税負担をするのは,たしかに将来世代である。しかし,その時点で返済を受けるのもまた,将来世代に他ならない。過去の,死んだ人間に返済することは意味を成さないからだ。遺産相続その他で,その時点で国債を保有している人々に返済がなされるのである。そこでは所得の再分配は生じるが,世代全体に一方的な負担が生じるわけではない。

 私はそのような政府債務が,いくら大きくなっても放っておけばよいのだ,と言っているわけではない。しかし,今の日本の政府債務が,それ以外をすべて犠牲にしてもよいほどの緊急性をもっているとか,それを縮小するためには,消費税増税という形で,中・低所得者を含めて負担することがもっとも公正なやり方だといった議論は,どれも自明なことではまったくない。

 残念ながら,この点についての経済理論は,きわめて不十分なものでしかない。そしてさらに悲しいことに,「国の借金」だの「将来世代への負担」だのといった子供だましのレトリックに依存し,それが蔓延していること自体が,何よりそれを証明しているのである。

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