世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
経済学史の意義
(杏林大学総合政策学部 教授)
2018.06.11
物理学者がニュートンやアルキメデスの原典を紐解くとすれば,それは教養としてであり,目前の物理現象について考えるためではない。同じく医学者も目の前の患者を救うために,ヒポクラテスや杉田玄白を参照することはあるまい。
それはそれらの自然科学が,常に過去の論考に決着をつけ,それを包摂する形で現在に至っているからであり,そのような意味で科学は「進歩するもの」ととらえられている。そしてそれはまさにその通りである。
経済学もまた科学であることを疑わない人たちは,同じことが経済学にも当てはまると考えている。したがってアダム・スミスやJ・S・ミルの著作を読むことは,いわば教養であり,そうでなければ好事家の歴史的関心事であるにすぎない。もちろん,それはそれで経済学の一つの研究分野を構成していることは言うまでもない。
私が学生時代の「経済学説史」の授業もまさにそうであった。一般均衡理論を核とする新古典派経済学こそが,現代の経済学の到達点であり,過去の経済学はそこにたどり着く過程に現れた,さまざまな点で今よりも「未熟な」経済学であった。過去の経済学者が賞賛されるのは,現代の到達点と同じ,またはその萌芽となる考え方が,かくも以前に既にあったことによってであった。
私は,その考え方は正しくないと思う。いや,おそらく正しくないことは誰もが了解しているのだが,なぜか肝心かなめの時にはそのことが等閑視されてしまうのである。正しくない理由は簡単だ。経済学の歴史的変遷は,決して過去に決着をつけ,それを包摂する形で進行しているのではないからである。それは自然法思想や功利主義などの思想的,政治的要素を常に含んでおり,理論の正誤を検証・反証する力には,自然科学のそれとは明らかに格段の隔たりがある。
ひとたび経済学のそのような疑似科学的装いを看破すれば,現代の到達点であると思われている主流派の経済学は,過去に多くのものを置き忘れ,放置し,無視し,覆い隠すことでその形式的洗練を勝ち取っているに過ぎないと気づく。
自然科学を仰ぎ見て「鵜の真似をする烏」を演じることの弊害は,特に二つの点で顕著である。
- ・進歩の到達点である新古典派経済学は,一般的妥当性をもった普遍的理論である,という思い込みを生み出した。
- ・その理論の科学性により,経済学から多くの政治性や価値判断を排除することが可能になっているという誤解を生み出した。
結果として,市場メカニズムのパフォーマンスを常に過信する考え方は,その普遍性と価値中立性を信じて疑わず,それが単なる信仰に過ぎず,醜悪な原理主義と化していることが,疑似科学の装いのもとに隠蔽されてしまうのである。
現代の主流派経済学が普遍性をもった到達点ではないことを認めるのであれば,経済学はさまざまなモデル,さまざまな論考・思想の集まりであることを認めなければならない。そしてそうであれば,過去の経済学もまた,その重要な構成要素の一つである。
過去の経済学者の論考について,そのモデルの前提が明確ではない,さまざまな因果関係に関する論理的推論が厳密ではない,あるいはそもそも閉じたモデルにすらなっていない等々の理由で糾弾することは容易である。しかしAV機器がいかにデジタルで高精度なものになろうと,それを見聞きしているわれわれは,相変わらず光の反射や空気の振動をアナログ的に受け取って認知している。精巧に書かれた絵画を見て「まるで本物のようだ」と称賛する一方で,本物の美しい景色を見た時には「まるで絵のようだ」という。それが人間のアナログ感覚というものだ。いかに厳密な数学的推論で処理され,いかに大量のデータを高度な統計的手法で分析したとしても,そこから何かを受け止め,現実社会への政策的適用を判断するのはアナログ仕様の政治的,思想的,倫理的価値判断であり続けている。
今日ほど洗練も抽象化もされていない過去の経済論考は,しかしそのすぐれて総合的な視点ゆえに,現代の経済学が置き忘れ,放置し,無視し,覆い隠しているものへの洞察に満ちている。それらはもう一度拾い直されねばならず,その意味で経済学史を学ぶことは,単なる教養ではなく,まさに現代の問題を考えるために重要な作業なのである。
ケインズによれば,哲学者・数学者のバートランド・ラッセルは,経済学を専攻しなかった理由として「それがあまりに易しすぎるから」と言い,同じ理由について物理学者のマックス・プランクは「それがあまりに難しかったから」と言ったという。この二人の知の巨人による経済学評について,私はどちらも正しかったのだと思っている。ラッセルは目の前にある経済学について言ったのであり,プランクはあるべき経済学について述べたのだ……そう信じたい。
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